2022 夏至 羽化前灰色液状
結局、日野のJAまで出かけて青梅を2キロ、完熟梅を3キロ買い足し、
早速、塩漬け。
ガラスの瓶だと水があがってくるのが見えるんですが、
漬物瓶だと見えないので、朝、昼、晩とわくわく覗いてしまいます。
これが梅酢に沈んで何日か経つと、梅雨が明ける。
照り付ける太陽の下に、ざるに並べて干すのが楽しみです。
何もされないときは毒なのに、
塩や砂糖と一緒になった途端に変化を始めて、
あんなにパワフルな食薬になってしまうから、
梅を食べることを発見した先人も素晴らしいし、
梅自体が素晴らしい。大好きです。
夏至ですね。
地球暦®の記事に、白夜地帯ではこの時期24時間体制で光合成と書いてありました。
暗くならないから、ずっと酸素が放出されつづけている。大気は十分に酸素に満たされて、ここのところ人類の一部がずっと気にしていた血中酸素も十分だろうか。
2020年始めからのこの2年あまりの間には、
恐らく誰もがとてもキツイ時があったので、
この期間の体験の振り返りってされるだろうか、
思い出したくなくてしばらくされないんじゃないかと思っている。
そうすると、コロナ禍からの「卒業」は各々が時機を見てしなくてはならないわけで。
誰も卒業式は設定してくれないので、
卒業しそびれる人なんかもでてくるのではないか。
かく言う十音も、2年間は自主ワーキングホリデイだとばかりに薬店の世界に飛び込んでみたのですけれど、
思ったよりも早く世間はもとの経済活動に戻りつつあり、戸惑いを感じています。
そして、渦中も淡々と通ってくださった常連さんに本当に感謝すると同時に、
元にはやっぱり、戻れない、戻らないものだと旅の掟を痛感しました。
まるで、さあじっくり大きな蝶になるんだ、と思って冬越しの蛹にこもったけれど、予想より早く気温があがっちゃって、周りがどんどん羽化し始めちゃっていて、自分は蛹の中でまだバラバラ状態で焦っているという感じです。
我ながらよい比喩だ。だてにひと夏を青虫たちの相手に費やしてはいませんね。
小説とか映画から学ぶのは、こういう時に焦っても仕方がないということだったりするので、キラキラしたものを見ても動揺しないように蛹の中で、液状の自分を鎮めています。
もしくは、いっそキラキラしたものが目にはいらないように、世の中の情報自体をあまり覗かなくなっているのは確かです。動揺するのが怖いのでしょう。
みなさんはいかがですか。
それは静止している時の自分の自然な鼓動の揺れをロックするような感覚でもあり、たびたび、そんなに固めていていいのかなという疑問もわきます。
体調も万全でなければと気を張っている。
毎朝、肉体労働を伴った接客に出かけるにあたって、中年に一番つらいのは気分の乱高下や、朝の体調が悪いことだから、身体が頑張らなくてもいいところまででいろいろを止めるようになりました。酒だけの話ではありません!
そして、何よりも疲れるのは人ともめること。くよくよと何日も生産性を落とすのを避けたくて、他人に対し用心深くなったと言えます。これは公私混同で暴れ馬で疲れ果てていた若いころと比べるとやっと社会人になってきたのかもしれませんし、地味というか平淡な人間を装っているようにも感じるのです。
この型を演じつづけた結果、オリジナルのわたしは反乱を起こしたりするのだろうか。
夏至の短い夜の始まりに、液状十音の計を告白しておきます。
無事登録販売者の本資格が取れたら、その資格は医薬品販売に従事し続けないと2年で取り消しになる任用資格でしかありませんが、薬店には固執せず、いったん十音の拠点を山の方へ移すつもりです。
どこの山になるのか、というのがまだ決定していないのですけれど、夫が自動車を手に入れて、今、いろいろと山を巡っています(奇しくも宅建の資格をとって移住/複住に関する仕事に参加しているので取材の案件もいただいたりするようです)。
冒頭の梅仕事もそうですが、しごとには、お金を稼ぐためのしごとと、暮らすためのしごとがあります。私の父などは、薪で暖をとる生活をしているので、自分たちの冬のために薪を割るしごとが欠かせません。家事と言えばそうかもしれないこういった暮らすためのしごとの割合を、人生の中でどんどん増やしていきたいと常々思っていました。
今までの経験をすべて注ぎ込める仕事として、リフレクソロジーを選びましたが、
リフレクソロジーも含めてこの3年も注ぎ込める仕事として発展形をいろいろ探った結果、古民家を一棟手に入れて、そこを本気で手入れし、そこを生きることと仕事の拠点にしたいと考えています。
時間がかかりますし自分で貯めたお金で買うと決めているので今はため息をついたりしますが、コトがでっかいので悲観しているヒマがありません。
最初は本当に小さなところから始めます。
セッションで培った審美眼と勘?すべてを動員して、磨けば光る小さな場を探し、
そこに手入れしてまずは一棟まるごと滞在していただく事業を起こすつもりです。
ところで、「ととのえる」という言葉がはやってしまいました。
調律とか、調子とか、整理術とか。
あんまり混沌としているので、そういう言葉が輝いて見えます。
でも混沌のエキスパート(!)として解り難いリフレクソロジスト十音は、
本当に必要なのは白黒分けて整理できる能力よりも、
ぐちゃぐちゃのグレイを持ちこたえることだったり、グレイのグラデーションに、ある差し込みをいれて、その切り口からそこの明度を感知できていることだったり、そこでまるごと、それはそれと味わいつつも、いつでもどこでも自分を安心させて生きることなのではないかと思うようになりました。混沌は色っぽいものです。
音楽だったり、手技だったり刺激だったり切り口はいろいろ、自分はモノやコトやヒトをととのえることが生業なんだと思っていましたが、流行っている言葉があまり好きではないので(笑)、
かわりに植木や家への興味からもらった「手入れ」という言葉を使おうかと思います。どうでしょう。
十音は、モノもコトもヒトも「手入れ」が好きで、手入れを極め、それで生きていけるために試行錯誤している。
東京での手技セッションは所望いただく限りは続けるつもりです。
今年は、メールの暑中見舞いを復活しようかと思っています。
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