間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

仕える。

わたしたちは、つくづく、
事ではなくて人に仕えてしまっている。

 

まるで仕事じゃなくて仕人だ。

 

インターネットの匿名性がサーヴィスから使命や美学を奪っていく。

 

匿名の書き込みに、働く人がみんなおびえていく。

 

書き込む人も、また怯えた一人の働く人なのでしょう。

 

7月21日の「律」は開室時刻を2時間遅くしました。

 

ayakoxyamazaki.wixsite.com

 

事前投票に行けたらそれが一番よいのですが、その日曜だけ行けるひともいるでしょうから。

 

投票割引もします。投票証明がなくてもします。でも投票証明、メモ用紙にも使えますから、もらって損はないですよ。(ボランティアさんが書き方知らなかったりするけれど)。

 

選挙なんて、匿名でできる強い防御で、強い攻撃。

 

企業の掲示板に書き込むその怒り、ちゃんと選挙に持って行ってください。
弱い人がさらに弱い人を見つけて怒りを抱えながら家路をPCへ向かってまっすぐ帰るなんて、カッコ悪いじゃないですか。

 

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アッシジ 2018年。手に持っているのは、ロレンツォ・ボナヴェントゥーラ・小澤高志の骨。が入っているリラックマ

 

 

クセノス来る。

昨夜、 世の中を変える異邦の存在「クセノス」を現世に送り出した歌い手、高橋美千子さんが、ふらりと、という風情で十音に寄ってくれました。

tiget.net

 

 

世の中を変えるのは若者、馬鹿者、よそ者といいますが、
昨夜大森復興教会には、そこに狂気の響きを期待してくる人間が満席連なり、
さながらヴァルプルギスの夜のような感じもあり、
何か大きなチェンジがありました。

 

狂気の響きを生み出す側は狂えない、そのギリギリを成し遂げるって、
大変に興味深い五行現象だわと、十音は偉そうにユニヴァーサル視点で思っていたら、夕方の十音に本人が現れてくれて。

 

昨夜のコンサートで取り上げたカルロ・ジュスアルドという人の歌のCDを
雑司が谷手waza市でかけていたこともあるのです。

 

誰にも知らせずにかけていましたが、
実は、「妻とその愛人を暗殺して予測不能の和声進行の曲を書き続けたイタリア貴族」というちょっと想像を絶するタイプの男性で、
しかし自分の中にもその要素は多いにあると感じることもある。

 

この時代に、衝動の強さを歌に残してくれて、嬉しい。
ジェズアルドの曲の中でリフレクソロジー・セッションがすごくうまいこといくことも多い。

  

クセノス=異邦人 

 

わたしはリフレクソロジーや究極のお節介も異質なものとしてクセノスと同じ働きをする存在と思っており、セッションは表現だと言いながらも、差し込みや異質であることの質を上げようとしています。

  
今日のみっちゃんとのセッションはずっとこの「異質であること」「異質だとは感じないこと」「異質だと感じさせられること」について、自由に言葉を紡いでいく素晴らしい時間でした。

 
西洋占星術における誕生日のように、
足裏から読む性質は大きな情報を含んでいるので、本人以外と共有することはありません。

 

しかし、境界を大きなテーマとした超級の調整力、職人気質、そしてスター性。
わたしが魅力的だと思うアーティストに必ずあって、
扱いにてこずることもあろうところについて、
みんな五行に委託しちゃって、二人で俯瞰するような作業は至福でした。

 
なんとわたしは贅沢な仕事をしているのでしょうね!

 

さて次なる高橋美千子さんの出演コンサート、7月はあと3つもあるのですが、こちらのホームページやFBページもどうぞ。

 

www.takahashimichiko.com

 

 

 

 

 

避難してくる人のことを。

6月に3回券を使ってくださった方は5名。5,000円をJARに代理寄付しました。

十音のセッション1回分。5000円あれば、成田に出向き、日本にたどり着いた難民に会えるとのこと。


なんで日本に来るのか。それは、現地でビザが比較的おりやすいんだそうです。それで何もわからなくても、まずは日本行きの飛行機に乗るんですね。わたしたちが海外旅行から帰ってくる飛行機に、彼らは一緒に乗っているかもしれない。


入国拒否と収容に関しては、これが本当にわが国なんだろうか、と否定したくなるようなことが起こっているようです。

 

bit.ly

  
アーティストの手続きのために品川の入国管理局に出向いたことがありますが、とにかく職員は日本語のみしか使いません、という世界。収容のための建物もすぐ上にそびえたっている。
つらい、と思いました。
 
月に3回目のセッション代1000円を、代理寄付しています。
これは施術1001回目以降の値上がり後も1000円でいくつもりです。
お金を必要としている団体は数多いのですが、十音はホームと貧困問題がやはり自分の問題の次に気になる半径の小さな問題なので、ここに寄付を決めています。
 
 

 

開室してから7月までで、ご予約件数は635件となりました。
1001回目のセッションから値上げします。
でも月3回目のセッションでいただく1000円はそのままに、こちらに代理寄付を続けたいと思っています。

 

最近はまっていた、HBOの「ニュースルーム」というアメリカのテレビドラマ、第3シーズンまで全部見終わってしまって、ちょっと脱力。

ソーシャル・ネットワークのアアロン・ソルキンの作で、実在のニュースと実名を使うのですが、2011年の福島の原発事故のことも取り上げていて、「なんでテプコには英語を話せる人がいないんだ!」というセリフもあります。

この回の台本は日本ネイティブが見るとちょっと変ですが、(日本語堪能という役のオリヴィア・マンが、レベル4と7を、シとシチの聞き違いで間違えて報道した、という設定なのですが、それは通用しないね)それでも、ジャーナリズムと視聴率についてとか本当に考えさせられる。そして私の周りにはない感情の処理の仕方や、感情と意見の分け方とか、仕事への切りのつけかたのようなものがわたしには珍しく、眼が離せませんでした。

 

 

調音。

波多野睦美先生が歌うパーセルを初めて聴いたのは、14年前、「魔女に指さされて風邪を悪化させた男がいるとか」とうわさになった(!)、王子ホールの歌曲の変容第1回でした。

 

波多野睦美 歌曲の変容シリーズ 第1回 2005.12.08 19:00 ~銀座 王子ホール~


www.ojihall.jp

 

12年前だと思ってたのに。14年前だったことが衝撃的なのですが。

 

「睦美さん40代を楽しんでいるようです」、とコンサートのプログラム誌かなにかに書いてあって、わたしもそうなりたいと願った20代最後の冬。

 

さて、悩める30代はすっとばして、あの時の先生よりも2、3歳ほども年をとったアヤコさんは、8年ほどもお休みしていた歌うことを少しずつ、9世紀のグレゴリオ聖歌ぐらいから再開しています。さかのぼりすぎか?そんなことはありません。整いすぎていない音楽は、現象の自然な動きを教えてくれますし、精製されていない音楽をすることはうまくいかない場所のスキャンになったりします。

 

それは手技療法も一緒ですね。

 

他人に刺激の差し込みをする仕事について、わたしは自分の手指を使う手法を選びました。90分の中で、相手の(足の)皮膚からもある種の刺激をもらう。そこでの受けとめとリアクションがないとセッションが成り立たないのは、リフレクソロジーも歌も同じこと。ひとりじゃできない仕事であるところが、気に入りもし、修行でもあります。

 

 

かように刺激で相手の身体の調子を聴くにあたって、ちょっと仕事が混んでくると自分のチューニングが歪んできてしまうことがあるのも事実。

とにかく異なる分野のパフォーマンスやワークショップに行くと、身体やこころが整う。

二人でつくる音楽による整えは、骨の間から気泡の音がするような強い整体とはまた違います。

世界の中でなんらか摩擦を起こして歪んだ心身の、白黒つけられないグレイトーンの加減、出汁の塩梅のような作業となります。

 

今日はすぐれた音楽セッションによって自分の手技セッションの濁りも洗い出され、身体がチューニングされていくのが分かりました。
言葉の選択の名手は、分野やジャンルを超えて世界を刺激するんですね。

 

・横からくる音に身体がチューニングされる
・身体の中の随行
・聴く余裕がないと助けてもらえない
・不協和音で滞空して、間を取る。もったいつける
・腕の円環が閉じていく。にじりよる。
・ないまぜな感じ

 

今日メモしたレッスン内の単語の選択は非常に身体的で、発声ではなくて人間の動きとして、聴く私の細胞に落ちてゆきました。発声と人間を切り離さないという点、なんだか東洋医学的だとリフレクソロジストになった私は思い、そのように捉えられるようになった時の流れ(とすっとばした30代)にも感謝しました。

 

そしてうまく書けないのですが、今は五行へ還ってしまわれた、柴崎久美子先生(ハープシコードチェンバロ奏者)との、1回きりのセッションリハーサルのことをしきりに思い出しました。そしてルネサンスダンスの世界を教えてくれたマエストロ小澤高志のことを。

 

今日のコンサートは午前と午後と同じプログラムで、間に公開レッスンが入っている構成だったのですが、なんだか14年間をタイムマシンで振り返ったようで気が晴れたのは、なんだろう。

 

 

****

 

さて、話変わって本日の語録にもある

 

・絶対、他人とやらないといられない楽器が歌い手。それなのに人を聴かないのも歌い手。

 

このフレーズの「歌い手」を「リフレクソロジスト」に置き換えて、「夕べの祈り」を口ずさみながら持ち帰りました。

 

この歌、「夕べの讃歌」という訳で出会ったわたしにとっては、まるで「屋根の上のヴァイオリン弾き」のテヴィエみたいなオヤジが仕事を終えて夕べの酒を頂けることをハレルヤ、感謝します、と歌っている「仕事の帰り道の歌」のような存在で、自分もオヤジな気分でよく口ずさみます。

Now,now that the sun hath veil’d his light
And bid the world goodnight;
To the soft bed my body I dispose,
But where shall my soul repose?
Dear,dear God,even in Thy arms,
And can there be any so sweet security!  ←ここが好きです!
Then to thy rest,O my soul! ←これの2度目も好き!さあ、今日もしごとした!帰るぞ!と聞こえる。
And singing,praise the mercy
That prolongs thy days.
Hallelujah! ←わたしの解釈では、ここはすでに酔っぱらってゴキゲンです!何度も言うし。

 

(An evening hymn で検索。わたしはこの曲目が”An"なのも好きです)

 

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Henry Purcell(1658-1695)

顔の骨から肉づきを再現する「複顔師」のお仕事を拝見したことがありますが、歌い手として波多野先生が顔から声を想像してらしたので、フットリフレクソロジストは足を想像してみます。

わたしは、歪みのないきれいなアーチと長い第2趾、しっかりしたかかと、傷のない柔らかい皮膚を想像しました。どの肖像画も、顎がしっかりしていて唇が厚く、すこし不敵な澄んだまなざしをしている。

小さくすむ。

ayakoxyamazaki.wixsite.com

 

4年前、

TOTOのギャラリー間で行われていた、

中村好文「小屋においでよ」展

 

その時にフェイスブックで書いたのが、以下のような文章でした。

「人間、最期には何も持っていけないらしい。後片付けを残った人にさせるのは嫌だ。いくら愛していても、逆も勘弁。私の最期はごみ袋二つ分くらいだといいな。」

 

同じ時期に見た、映画「マーガレット・サッチャー」に、

亡き夫の服を袋に詰めるシーンがあったもので。

 

写真は中村好文さんの、小屋の為の持ち物を考えるノート。

とても小さな小屋だったと記憶しています。

 

物音ひとつしない森の中では、

かえって頭の中で思い考えることがとても忙しくなるように、

シンプルな生活と仕事の中では、

深く確実な人生を送ることができるのではないか、と期待しています。

 

削いでいくには工夫が必要で、

その工夫について考えるときに創造ができるからです。

 

でも、現状、

今このパソコンの中だけ(!)においてもぜんぜんシンプルになれないことに、

いら立ちます。

 

Eメールで仕事を進めることが不得意なので、

直接会うことでしかできない仕事を選んだというのに、

その仕事のために、HPを開設し、Facebookをやり、Twitterをやり、

その仕事の先方のご都合でLineを再開設し…

 

日々が、ツールをうまく使いこなすために忙しくなります。

 

・・・・・

。。。。。

 

これ、やめたいなあ。

 

やめるにはどうしたらいいか考えます。。。

揺れる、感じる、動くの順番。

夜の地震だったので、一睡もしていない方が多いのではと思います。

新潟、山形の地震の被害にあわれた方にお見舞い申し上げます。

 

東京は周囲の地の被害によって忘れたころにちゃんと警告をされている。できることはして、いつかは来る大地の大揺れにしたがっておこりそうなパニックに対処しないといけないなと思う。

(それでも全部他人のせいにする人がいて、腹立つだろうけれど…まあそこも、ほどほどに許可しながら乗り切ることができるようにしたいです)

 

とりあえず…自分と夫の避難リュックに、アルミホイル1巻きずつと、自分のほうに弾性靴下を加えて、上にのっかっていた色々を取り除いて取りやすくし、揺れが突き上げたところからそのリュックを取って外に出るところまでをシミュレーションしました。
それでも、倒れるはずのないものが倒れたり、通れるはずのところが通れなくなったりするのでしょうから。

 

あと、施術中だったらどうするかなというのも、手技者はシミュレーション必要ですね。フットリフレクソロジーはまだ、服を着ているのですが、アロマセラピーとか、あと昨日鍼灸治療を受けて首に鍼8本さして横たわりながら、「今地震来たら鍼自分で抜きながら非難するのかな」て考えてました。

 

私にシミュレーションが必要なのは、思考はほっておくと固まってしまうものだからです。言い訳とか、怒りとか、そこから動けなくなっている時に出てくるなという実感があります。

土が揺れる時って思考の塊に揺さぶりをかけなさいよと言われているんじゃないかなと思うのです。

 

災害時に関わらず、思考を前へ前へ進めるのには意志が必要で…日常生活の中でそれを実感します。

色々やってみようと思うのですが、例えば今やっている早起きは、思考は後からついてくるように身体を動かしていて、目覚まし時計が鳴ってから身体を縦にするのが5秒、
シャワーを浴びに行くまでほとんど10秒ぐらい(!)

 

考える前に身体を動かすと、我に返ったころには(笑)ちょっと眠気はあれど、前向きな気分になっているもので、それを繰り返すと起きることはつらいことではなくなってくる。今は、ハッカの精油を一滴撒くことにしていて、もう、脳みそも癖付けしています。

 

朝起きられないんです。だるいんです。という方には、本当に身体が起きられない方と、モノ思うことが先に来ちゃって自ら「起きない」人がいる。大体後者のほうが多く、自己嫌悪を伴っていて、辛そうです。

 

自分にも覚えがあるのですが、「感じる」「味わう」ことを正当化しすぎて言い訳の材料にしちゃっているかもしれませんね。

 

繊細であることはとても素敵なことですけれど、それは自分を苦しめるための性質ではないので…そういう方がちょっと立ち止まって感じて味わうのは、日々の中にポイントを定めて行うとよいです。

例えば食事、
例えばお風呂、
例えば朝5分の鉢植えを眺める時間、
例えばブログを更新する時間、

そして例えば「十音のセッションに来る120分」に十分に感じて味わっていただいて(笑)、
もし本当に早起きが必要なのであれば、「感じる」よりも早く動く自分を楽しんでみては。

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6‐7月のセッション受付中です。

リフレクソロジー雑司が谷十音(とーん)の開室日。朝は、7:00から、夜は22:00最終スタートまで。
https://bit.ly/2IUP1qL

         

◆ブログ「間と食卓と調子」(開室時からのものを移行しつつ、書き足してます)
https://reflexologytone.hatenablog.com/

  

◆十音インスタグラム(FBにアップしていないちょっとした日々のTone)
https://www.instagram.com/ayael_tone/

       

◆十音ホームページ(ご紹介)
https://ayakoxyamazaki.wixsite.com/reflexology-tone

 

 

呼称の功罪。

内臓の名前を定めたところから、内臓の病気が始まったように思う。

病院に、病人と認定してもらいに行く人もいるかもしれません。

保険のきく薬は症状名がないと出してもらえない。

だから病気の名前も考え出しました。

 

同じような感じで、

カテゴライズすることでそのカテゴリーっぽいふるまいを求められたり、

そのカテゴリーの性質だと思い込んだりすることがあるように思うということを、

昨年の「ほぐしをほぐす」の前段で書いた。

 

ayakoxyamazaki.wixsite.com

 

セラピストという職業名をつけられたことで、

セラピストらしく健全な言葉を紡がなければ失格なのではないかとか、

人に術を施す側だと思い込み苦しくなったりするということ。

 

あと最近、自分が「就職氷河期世代」とか「非正規雇用」とか「有期雇用」というカテゴリー名を聞くと過剰反応するということが分かりました。

 

何も強いられていないのに、なんだか「救済されなかった」みたいな卑屈な思いがわいてくるのはなぜなのでしょう。

 

たまたま時代がそのような傾向だっただけで、雇用は雇用で正も非正もなく、2種類の雇い方と働き方があっただけ。

  

こんなことで怒りがぶり返したりするのは本当に時間の無駄ですし、
まんまと選挙の作戦に煽られている感じで愚かだと思うので、
そろそろスカっと、自分の怒りにカタをつけないといけないと思っています。

 

今日、クライアントさんと話していて気が付いたのですが、
わたしには単語に刺激され踊らされる弱さがあると思うので、
カテゴライズや単語の向こうにある本質のところだけを感じるようにしたい。

 

わたしは自由な働き方を許されていたし、それを押さえつけていたのは自分自身。
でもそれに気が付いたのはラッキーで、方向転換することができると思います。

 

新聞ではわたしの年代がとても元気なく、引きこもり、就業支援が必要だと書いてあるようですが、そうなのかなあ。

 

自分の生を精いっぱい生きている人が多いように思います。

 

「正規」が幸せだというのは、方針をつくるひとたちの固定概念じゃないかしら。