間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

ほぐしをほぐす~セラピストのコリほぐし~Vol.1⑨セラピー×好奇心

 

十音――最後にセラピーに差し込みたい言葉は「好奇心」です。

 

セラピー×好奇心。

 

好奇心はエネルギーのいることだと思っています。

好奇心のある人のほうがキラキラして美しく見えるけれど、

あそこまではいけないなと思っている自分もいる。

 

好奇心は少な目なんだけれど、

他人の問いには興味を持とうとしている自分もいます。

 

他人に興味がないというのは豊かでない気がして、

こういう場も作っています。

 

 

「興味を持つ=問う」ことは、

他人への刺激にもなり得ると思う。

 

正直、無理やり好奇心をオンにして、

刺激を差し込もうとしているのかもしれません。

好奇心をもつということに関して、

思うところがあれば教えてください。

 

 

小松――私は身体が丈夫なので、

好奇心を持ったときに行動にうつせる身体があるのは

幸せだったなと思います。

 

40歳を超えた時に、ちょっと前に3.11もあって、

あと何回花見ができるのかなと普通に考えました。

30歳って時が永遠に続く感じがしたんですけれど、

40歳になったら、赤いちゃんちゃんこまであと20年。

20回の花見かぁ〜と、カウントダウン感が出てきました。

 

旅だったとしたら、

行きたいところに行くということに対して…。

 

例えばメキシコに行くのも

「いつか」とは思っていたんです。

実際友人が行くと言い出したとき、

予算も用意していなかったんですけれど、

スケジュールが空いていたんです。

 

お金かかるし、フリーランスなのに店、閉めるし。

私はその時モロッコ旅のために貯金をしていたんですね。

なのにメキシコ横入り!笑。

 

でも考えたらそんなメキシコ旅行を一生にあと何回できる?と思ったら、

身体も元気だし、

今だったら帰ってきてまた稼げばいいか!と。

 

他人から見たら

決断出すのが早いと思われているんですけれど、

実は決断を下すまでは結構もやもやしたり、

すごく小心者になっていたりするんです。

 

旅はそれが象徴的に出やすい。

もやもやしてエアチケットを

パソコンの画面で見ているわけですよね。

どうしようかなって。

 

そうすると、自分が見ていたエアチケットが

一晩で5万円値段があがったりして!

検索しなおすと他のが出てきて、

胸をなでおろすんですけれど、本当に心臓に悪い。

 

「時間かけて悩んでも、どうせ行く自分」

という性質もずいぶん解ったので、

1日でもエアチケットが安いうちに、

と思うようになりました 笑


そうやってメキシコに行ってピラミッドに上ったりした時に、

高い石段を上り、(高所恐怖症なのに)、

腰を抜かしながら降りてくる。

これは人が(落ちて)死んだりしているのかなと思って聞くと、

1年に何人かは頭を割っているよって。

 

団体旅行で来たおじいちゃんが

そういう事故を起こすそうで…、

1年でも若い細胞を持っているうちに、

行こうって思いました。

 

 

 

――タイムリミットが好奇心を後押しする。

 

そう。

そこは、自分が行ける状態であることに感謝をしているし、

行けるなら行っておこうという気持ちが年々強くなっている。

 

そのせいか、

エジプトのイシス神殿で瞑想した時に、

頭にふわっと浮かんできたのは、

「好奇心と若さ」についてだったんです。

セラピストになって、

老いの仕組みも前よりも分かるようになったんですが、

神経系からのインプットや直観も含めて思うのは、

「人間キネシオロジー化」しているということ。

 

こっちとこっちだったら、こっちを選ぶ、

ということが感覚的にわかる。

スピリチュアルな意味ではなく、

合う、合わないの「判断力」なんです。

 

その精度が年々上がってきています。

その基準は、

「細胞が劣化しそうなものには、近づかない」ということ 笑。

でもコンビニのから揚げとか好きなんで食べますよ。

それはいいんです。精神の栄養になっているから。

油は酸化しているんだろうなって思うけれど、

おいしいからいいんだもんって納得しています。

 

でも、自分の環境が少しでも酸化しそうな感じがしてきたら

逃げ出す算段をします 笑。

仕事放棄はしないですけれど策を練る。

 

逆に好奇心が向くところは生き生きといられる方なので、

そっちに行っていると細胞が割と喜ぶ感じがする。

どんなに疲れていても。

そういうのはすごく大事にしています。

 

 

 

――好奇心をもって

相手に向かっていくということと、

「介入する」ということは違うことですか。

(介護、仲介、皮膚を介して…「介」という字は

刺激の差し込みと密接な気がします)

 

私は「癒す」には興味がないと

先ほども話した気がするのですが、

多分それは「人は勝手に癒されていく」

というものだと思っているからなんですよね。

 

こちらが「癒す」気持ちで望んで、

たまたま合致して癒されることもあれば、

癒されないこともある。

でも、ふとしたきっかけで

勝手に自分にカチッとくるカギを見つけたら、

勝手に癒されちゃう。

だから、「介入する」っていう概念自体が

無意味な気がしちゃってるのかなと。

 

介入って、私にとっての言葉の感覚でいうと、

もう少しエゴや見返りのニュアンスが含まれるんです。

他の人はそういう意味で使ってないかもしれませんけれど。

だから、人との「出会い」があり

「ちょっとした手助け」を行ったとしても、

そこで生まれる化学反応が

あったりなかったりは天任せというか。

その人と、運命的に仲良くなるかもしれないし、

全く一期一会の不思議な出会いで終わるのかもしれない。

その出会いによって自分の人生に一つの爪痕というか

引っかかりができたことは確実だけど、

相手に爪痕を残したかどうかはどうでもいい。

もしそうした爪痕や引っ掛かりを残そうとしてしまったら

「介入」なのかなという気がします。