間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

日課。

毎朝
わたしはどうしたらいいんでしょうか、と訊いては、
知らんがな、自分で考えて行動しなはれ。
とwords of wisdom をいただき、
はあ、そうですよね…
となったところでドラッグストアに到着。
 
自分の中の神みたいなものとの正解のない毎朝の問答。
ちなみに朝のFB投稿は、駅のホームで電車を待つあいだに書くことにしています。
 
今日も開店1時間前からマスクや消毒液を求めてお店の3つの辺にいたる長く密な列ができており、
マスクを着けた人から「マスクはもうないのか、いつ入ってくるんですか」と寄られ(わたしは自作の布マスクをしています)、
 
接客をしないはずの契約が、並ぶ人の列を整理してたりして、
感情を消そう、機械になるのだ、「感じのよい声」は出せるし、店内に流れているうすっぺらいポピュラー音楽の歌詞よりはまだましかと、
 

予約キャンセルのメールを受けた帰りふと見えたレストランの中には1メートルもないテーブルを囲んでおしゃべりに興じながらランチをとる人たちがおり、
 
落ち込んだ自分をなぐさめようと成城石井で「そのままでいいです」と買ったお菓子を、なおも薄いビニールぶくろに入れようとする店員さんに「その袋もいらないです」と言わねばならず、
 
ついでに昨日のことですが、ビッグイシューのビニール袋もいらないので、と返そうとしたら「持って行ってくれませんか、しまうのが大変なんですよ」と販売のおじちゃんから言われ、
 
なぜ同じヒト科の中で、
これらが全てOKなのに、わたしのリフレクソロジーが、そしてリフレクソロジーの場に来ることが、懸命なクライアントに不安を与えるのか、訳が分かりません…!
 
と信号のところで涙もでないことに寂しさを覚え、
足取りがトボ、トボと、元気がなくなっていく。

「わたしがしごとをする」ことが、
人の「命を危険にさらす」ので控えろという空気。
この空気は、たとえ休業補償をもらおうともわたしを傷つけるでしょう。
外出自粛、今は我慢、Stay Home という言葉が刃のようです。
  
ーそうだコロナウィルスの天国の入場資格は、コロナウィルスに感染したことのある人だけに違いない、ちゃんと養生しようってずっと言ってきたんだもの、養生して感染しても生き残ったモノたちだけで抱き合い、食卓を共にし、小さなコミュニティを形成して仕事の場を持てばいい…ー
 
こんなフレーズを紡いでしまう自分をヤバいとハっとし、これはもう自分の言霊に自家中毒状態だとブルブル。
 
そんな時にまたマザーメリーが橘いずみ「太陽」という歌の詞を寄越した。
 
ねえちょっとあなた死なないでなんでもいいから生きていて
あなたの存在があるからわたしはなんとか生きられる
 
という、こんなのささげられそうになったら誰もが全力で逃げたほうがいい詞なのですが、
ちょっとそれっぽい太陽ではないが月みたいな方たちが自分にもいる、ということを思いだした。


同じコミュニティにはいないが今日もそれぞれどこかで言葉を使い奮闘されていることでしょう。
わたしは今も日付が1年分(味のある雑な字で)並んだ予約票を持ち歩いており、それは抗不安薬より依存性のない、冒頭の神のような(よりはあたたかな)感じで効きます。笑


幸せであろうと、恥じないしごとをしたいとずっと思っているんでした。


***

 

とにかく、一人っきりでは何も解せないしごとだということだけははっきりしているので、

実際に触れられるクライアントが減っていく今、
いくつか立ち上がっているセラピスト/ボディワーカーの連帯の一員になることが必要なのですが、

表現手段として手技療法をやっている、という不純な動機があるため、
どうも他人への好奇心を欠いているということに気が付く…

もう少し、書いていよう。明日もきっと。