間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

tonenoteトオンノオト 人の、枠をはみ出したカケラの価値を名付けられるのも言葉。

ボディワーカーの小笠原和葉さんが、「落胆、についての分析」として、フェイスブックにすごく大事なことを書いて下さってました。
十音にとっては、いろいろな仕舞われていた考えの扉の鍵が、ある大掃除で一気に出て来たみたいなそういう文章でした。
 
落胆とは可能性を喪失したという勘違いのこと。
優れた施術者には、喪失したと思っていた可能性が、まだクライアントと共にそこにあると、ちゃんと見えている。身体を見るまなざしでもって。
 
という感じのことなのですが…
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歌っていた時、自分を教えるというワークショップを企画してくださった師匠が、自分の身体をだます、という言い方に変換されていたのを思い出しました。回路切り替えですね。
優れた治療家に会った時、自分から零れ落ちてしまった時間のことより、同じ期間で自分の中に積み重なった時間の意味のほうに気が付きよかったなあと思うのもこういうまなざしの質によるのかなと思います。
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映画「ハゲタカ」だったか。「何者かになるんだ!」という言葉はロストジェネレーションにはきついなあと思っていました。
何者かにならねば車のネジと一緒、替えがきき価値がないというメッセージと、一方で「あなたはあなたのままあるがままで価値がある」というのは同じぐらい強い呪。
どちらにも当て「はまれない」自分に焦ったり、混乱したり、疲れ果てたりしてしまいます。
 
かように言葉というものは…不定愁訴を疾患と認定し加えてどこが原因かまで固定してしまうような力があります。
 
そして言葉は、固定枠からはみ出した行き場のない思いを斬り捨ててしまったりする。
斬り捨てられ失われてしまった思いが多すぎると身体ががっかりしてしまいます。
「がっかりしてしまうと思う」ではなくて「がっかりしてしまいます」と書くのは、他でもない十音はこのがっかりがデフォルトなもので、もう断定しちゃう。
いつも解りにくい感じなのは、そういうことでしょう。
 
でも、斬り捨てるのも言葉であれば、「見つけたぞ」と報告するのも言葉だったりする。
斬り捨てられたことが何かを知っていたり、未練も強い傾向がある人は、自分を見つけてもらおうとして施術を受けにいったり、セラピーを受けてみたり、境界をはっきりして自分をポジで感じるために水風呂に入ってみたり(極端)、文章を書いたりする。
 
自分は何も喪失していない、と思うなんてまた極端な多幸感みたいで面白くないとは思いますが。
 
人の、枠をはみ出したカケラの価値を名付けられるのも言葉。