間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

おんがく。

手技というかセラピーセッション一式の密度を濃くするのに、
セラピーメソッドそのものの講習会にいくよりも、
ちょっとずらしたジャンルの中で、使われていることを学びに行くほうが、
色々な言語を獲得できて、濃くすることができるように思うたちなので、

 

10年ぶりぐらいに、音楽を学ぶことにしました。
祐天寺にある「フォンス・フローリス古楽院」にて、月1日、まずは1年間の講座に通うことに。

 

わたしはヨーロッパの音楽を演奏していましたが、譜読みをして間違いなく演奏するということに偏っていたと思う。

そこから10年のオーケストラ事務局勤務の間に、音楽家とうまくやることに精いっぱいで、自分も音楽をするということを、身体が忘れていった。

忘れ切ったところで最近声を出してみたら、「音」が語りかけてくれるものに震えた。そして、昔はできなかった「楽しむ」ということができるようになったようにも思いました。

 

昨年から、なぜか清明の時期に、「放蕩息子、すまなそうに実家に帰る」みたいなことが起こります。2018年は「ただいま、小澤高志さん。ただいま、15世紀ルネサンス・ダンス」。

 

そして今年は「すまなそうに実家にちょっと寄ったのち、寺にまで入っちまった」
と言ったらよいか…

 

グレゴリオ聖歌ルネサンス音楽の初歩を学びに。そう、9世紀まで行くことにしました。

 

「共同体であること、それを続かせていくということを意識して1年やってください。」

 

グレゴリオ聖歌は響きの共同体。各々の役割を果たします。なので、この共同体の響きを聴いていれば、おのずと自分の発声方法はわかってくるはず」

 

午前の講師、渡辺研一郎さんの言葉に、冒頭から放蕩息子は、今までの人生の不協和をただされるかのよう。

 

そうだった。この音楽が生まれた修道院はそういうところだった。
「父性」が優位なのです。つべこべ言わずに、合わせろ、上司は神なんだから、という世界でした。

 

しかし、自営業として、自分の楽譜から自分の音だけを拾い集めて必死に歌っていくような毎日において、そのあなたのしがみついている「個」をいったん捨ててみましょうか、とやさしく言ってもらったかのようでもあり。

 

それは今までのしごとでもずーっと先輩方から言われ続けていたことのはずなのに、


個を削いで削いで、それでも立ち昇るのが個性だということを、いろんな方法で教えられて、しかし受け入れることができなかったなー。
(なぜでしょうね。母性から言われることが多かったからかな、ごめんなさい)

 

そして、実は大学の「西洋音楽史」の講義は、
ヒューズの「ヨーロッパ音楽の歴史」の「上巻だけ」、
つまり9世紀から16世紀だけやるという。女子大でそれって面白いですよね。

黒一点だった先生の修行だったんだろうか。

 

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↑ これだ!

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↑ なんだ、意外にがんばっているじゃないか。

 

わたしの気づきは、2ダース年遅いということでしょうか。…遅すぎるぞ!眠りすぎだ!

 

気を取り直して、

この入門編では、半年かけて教会旋法を学び、後半でネウマ譜を学ぶそうです。
教会旋法の不思議な「色」の違いのことは、また次回以降に…

 

中途半端な絶対音感(なぜか半音低いのです)が仕掛けてくる混乱に抗うのがつらいのですが、最後に現れた倍音にはそんな抵抗が吹っ飛んでしまうかのような、天からの招聘感がありました。

 

これを利用して、修道士をリクルートしたな?と思ってしまうほど。
誰も出していないのにふりそそぐ音。

 

倍音が集団をまとめる」

 

という言葉があって思わず身構えてしまいましたが(どこまでアンチ集団なんだか)、実は、これはひとりで音楽をしていても聴こえにくいもの。
人とおんがくするから聞こえる音。


自分は出していないのに、空間に幾筋もの旋律が生まれるって本当に五行的。

 

…とまあこれまでが午前のこと。

 

 

 

そして、午後は
「理解できるということと歌えるということは、違うので。…ははは」
と乾いた笑いで生徒を凍り付かせる。

 

櫻井元希さんの「ルネサンス音楽入門」。一昨日十音にもご来室くださったので、その内面に広がる素晴らしい世界については櫻井さんのブログをご覧ください。

 

ルネサンスの楽譜を見て、まずわーおと思ったのは、

「休符」がある!ということでした。

 

わたし、修士論文西洋音楽における「間」の研究のはじめの一歩だったのです。

オペラ歌手が「休止」において何をしているか、ということを、データと形而上学的なところから考察する…という内容だったような。

(そういえば、当時使っていたVAIOのノートがいったん気絶して、もう一回最初から書き直した章があったな。とかどうでもよい思い出が)

 

オーケストラのマネジメントにいたころ、スコアの和声を一瞬で身体に入れていく指揮者もすごいが、「パート譜」で音楽ができるのもなんてすごいんだろうと楽員さんを見ていました。それもここぞという時にくる、パーカッションのひとたちとか…舞台上で休止を持ちこたえるのは大変なことだと思う。

 

しかしながら、ルネサンスの楽譜の「休符」の存在感のない書き方ときたら。
インクがちょっとはみ出してしまいましたか?みたいな。

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↑どうしてこれで、3.5拍も黙ってられるのか。

 

なるべく紙は節約、パート譜は休止の部分を詰めて書く。

 

つる植物の好きな私は、時々お手伝いをさせていただく「ベアータ・ムジカ・トキエンシス」が取り組むような、ルネサンスポリフォニーのうねうねと続く感じにも大層惹かれるのですが、そのうねうねをいったんとめる「休止」とそれを表す「休符」に、こんなにも引き戻されることにまずは驚き、15世紀のこの人たちにとって休止ってなんだったんだろう、ひいては余白とはなんだったんだろう、ということに思いを馳せる。

 

小節線がなかったり、音価の感覚が現代譜と違うために、最初は全員で歌い始めても全員混乱したら音楽ストップになってしまう。Show must go on と「そして誰もいなくなった」の背中合わせというか。

 

書かなくてもいいや、プロはみんなが分かっているから。という世界だったんだそうで、落丁かと思うくらい歌詞がついていなかったり、言葉が略されたりしていますが、それは古典舞踏の世界でも一緒だったなと思う。

 

それに「ムジカ・フィクタ」と言うそうですが音を半音ぐらい上げたり下げたりというのも、だって上げないと音程がヤな感じになるじゃん、という理由であって、音楽がとても身体感覚と密接です。「規則はないけれど、理由はある」というのが発見。

 

いろいろと指示が書かれていない譜面を歌っていると、妙に信頼されているような気になるから不思議です。

 

最近見た、休符の上に強弱記号が書いてあるような、作曲家の強い意思は、
作品としてはわかるのですが、歌う自信はないし、作曲家との対話の余地がないなと思ったりもするので…

 

長く書きすぎたので、そろそろ明日の「律」の準備に移らねばなりませんが、

 

オーケストラや手技療法を経由して帰り着いた放蕩息子が聴いたのは、

「お前が生まれるずーっと前の時代、音楽はとても身体的で、五行と仲がよかったのだよ。」
という教え。楽譜から、実践を通しながら一所懸命研究して、そういう声を聴かせてくれるアーティストたちに本当に感謝するし、もう一度音楽を学び始めるチャンスをもらえたことを嬉しく思います。

 

まずはザーッと言葉にしましたが、これをわたしの手技療法者としての身体にどう落とし込むか。

 

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