日本ソマティック心理学協会第5回大会2日目
今回の大会のテーマが、「ケア」と「ソーマ」だそうですが、
会場にいる「ひと」の多様性が半端ない。
学習会とかシンポジウムだと、まあなんとなく、似たような雰囲気のひとたちで
シャンシャン閉会するというイメージがあるのですが、
Soma を合言葉にすると(自分含めて)どんな人間も来るというか。
ほほ笑む人とか、さいごまで怒っている人とか、セラピスト、介護職、瞑想、山伏、シスター、タッチ、チベット仏教、住職、演劇、いい意味での魑魅魍魎の会みたいだったので、
自分も魑魅魍魎の一角で漂っていられて、楽でした。
ケアする心身、ケアされる心身以上に、
ケアしたい心身、ケアされたい心身の妖気のようなものが立ちのぼってきたように感じる、日本ソマティック心理学協会第5回記念大会の、2日目でした。
あと、資本主義に取り込まれた「ケア」というか「セラピー」について考えるきっかけになりました。
午前中は、参加しようと思っていた藤原ちえこさんのトラウマ・セラピーのエクササイズに、
あまりに人が押しかけていて、雰囲気に怖気づき(笑)。
ああ、ここでこの場に居続けることを面倒くさがる(あきらめる)のがあたしの悪い癖。
切り拓くことができない。
と思いつつも、トラウマ・セラピーについて知りたい人が多いということは、
それだけトラウマに興味のある人が多いということで、
当事者も多いのかもしれないという現実を直視できなくなり、大きな教室に戻りました。
そこでは、「身体知とケア」の講演&ディスカッションが行われることになっていて、逡巡しつつ席につきました。
そもそも、「哲学と美学びっしりだけれどわかりにくいリフレクソロジスト」だと自分を思っているわたしは、この頭でっかちを脱却しようと、(あまり好きではない)ワークショップやエクササイズというものに参加しようとしていたのだが…などとぐずぐずと考えつつ。
失礼な奴です。
ただ、その前に、「認識論から見た身体」について共通講演を担当された、哲学科教授の大橋容一郎先生の、檀上からのコミュニケーションの鋭さにちょっと興味があった自分もいた。
そして、昨日買った「身体のリベラルアーツ」のまとめ役、鈴木守先生も演者のひとりだしという積極的な動機もあった。
結果、この2時間の「言葉の奥深さ」によって、どのワークよりも問題提起が「腑に落ち」、わたしを安心させ、具体的な行動の指針となったというのも、ソマティックに言えばcallingということなのか。(ちなみにわたしは妖女サイベルの物語とか大好きです)
ものすごく危機感に満ちているにも拘わらずどこか詩的な上智大学の鈴木先生の演題「ケアの身体性」のあと、
東大の上廣死生学・応用倫理の早川正祐先生が提供されていた、「ケアにおける身体知の一側面」。
「病の語りと共感と困難さ」という、多くの世帯での現実的な問題をまずは俯瞰。
・アーサー・フランクによる「復帰の語り」「混沌の語り」の特徴。「復帰の語り」は「復興の語り」とも言える。震災からの復興を語る言葉は、先を希望的にしか語らない。
・「コミュカティブ」であることで生ずる共有しやすさと、危険性(そこでは「達成する身体」ばかりがとりあげられ、「共有する身体」が拒絶される)
このあたりから、「打率3割」と評されていたわたしの説明力(言っていること3割も通じない)が突然触発されて、一気に質問文を書き上げました。
2020年が終わった後、スポーツには、ケアには、どのような変化が残っているのでしょう、という質問への大橋先生からのコメントが示唆的でした。
「大正の始め、『文化主義』がありました。10年も続かずにドイツでも日本でも終わってしまいました。そのあと来たのは国家主義です。歴史に学ぶのであれば、2020年にオリンピック/パラリンピックが終わった後(のスポーツ/ケアに)訪れるのは国家主義ではと思います。そうなってはいけないのでは。」
スポーツの商業化と同じく、ケアも商業化しつつあります。
ここでの「商業化」というのはお金が上手に回るということではなくて、「わかりやすい表現(できれば数字)」に表現を依存して、その裏側にある混沌について思考することをやめてしまい、言葉で語る豊かさを忘れる危険性を孕んでいるもの。
スポーツと文化の祭典、といいながら、
言葉の文化が全く排除されているということに、
わたしはまるで身体も文化も蹂躙されているかのような怒りを感じており、
どう身を処したらよいのか冷静に考えることができていませんでした。
あなたがボディケアの世界で感じていることと、僕がスポーツで感じていることは、同じだと思う、と応えてくださった鈴木先生の、他の方の質問へのコメントも印象的でした。
「スポーツから一般世界に出て行った『言葉』として『ティームワーク』があります。つまり勝つための戦略です。対する言葉に『クラブワーク」があります。凹凸はあるがみなで共有していくという、城の石垣のような構造のことです。1軍選手はティームワークしか考えられない。そして、クラブワークについて考え始めるのは、生き残りをかけた2軍以下の選手たちなんです」(鈴木先生)
*
ここからは、いつも「混沌の語り」によって問題を打破できないかともがく、
個人の指針なのですが…
わたしはセラピストのブログやFBの「キラキラ感」に食傷気味でした。
反対にこの「ひとりよがりの哲学美学満載だけれどわかりにくいブログ」は
ほとんど読まれないことがあるのも知っています。
キラキラの「復帰の語り」のほうがわかりやすく、お商売として流行り、
容易に共有される(またはいいね!マークをもらえる)でしょう。
どうしてもそこに違和感があって、しかし十音の名前は広めたい。
お商売としての欲もあったわたしはいつも孤独感を感じていました。
わたしの混沌の語りを認めてほしい、と思っていたと思います。
キラキラだけでいいのかセラピー業界よ!それでよいのかケアされたい心身よ!って。
「サロン」という美しい名や、文章のキラキラ感こそが、
セラピーやリラクゼーションの世界から人を引きはがし、その定型文章のために自分が手にもつ「ケア」の本質を、忘れさせてしまうのではとジレンマを感じるのです。
(同じく、オリンピック・パラリンピックについても、
「感動をありがとう!スポーツって素晴らしい。」
で席捲しようとしているだろう、ぜったいテレビなんか買わないぞ、とかアンチしているわけです。笑)
しかしながら、セラピーやケアの、眼をそむけたくなる「汚(きた)なごと」や、
複雑さ、もやもやとしたものを混沌とした文脈でもよい、なんとか言葉にして語らずしては、すっきりしないのではないかな。解決がないのではないか。
むしろ、わたしたち手技療法者の「技」として必要なのは、
キラキラする文法ではなくて、
現場でその「きたなごと」ともやもやに持ちこたえ、
ギリギリをクライアントとともに通り抜けるような技術なのではないか。
お花畑を一緒に歩くのではなく、一緒に恐ろしい深海まで潜るが、必ず上手に耳抜きをさせて自分も無事に浮上するようなことなのではないか。
そこに朝日がみえなくてどんより曇っていても、がっかりしない知の技なのではないか?