調音。
波多野睦美先生が歌うパーセルを初めて聴いたのは、14年前、「魔女に指さされて風邪を悪化させた男がいるとか」とうわさになった(!)、王子ホールの歌曲の変容第1回でした。
波多野睦美 歌曲の変容シリーズ 第1回 2005.12.08 19:00 ~銀座 王子ホール~
12年前だと思ってたのに。14年前だったことが衝撃的なのですが。
「睦美さん40代を楽しんでいるようです」、とコンサートのプログラム誌かなにかに書いてあって、わたしもそうなりたいと願った20代最後の冬。
さて、悩める30代はすっとばして、あの時の先生よりも2、3歳ほども年をとったアヤコさんは、8年ほどもお休みしていた歌うことを少しずつ、9世紀のグレゴリオ聖歌ぐらいから再開しています。さかのぼりすぎか?そんなことはありません。整いすぎていない音楽は、現象の自然な動きを教えてくれますし、精製されていない音楽をすることはうまくいかない場所のスキャンになったりします。
それは手技療法も一緒ですね。
他人に刺激の差し込みをする仕事について、わたしは自分の手指を使う手法を選びました。90分の中で、相手の(足の)皮膚からもある種の刺激をもらう。そこでの受けとめとリアクションがないとセッションが成り立たないのは、リフレクソロジーも歌も同じこと。ひとりじゃできない仕事であるところが、気に入りもし、修行でもあります。
かように刺激で相手の身体の調子を聴くにあたって、ちょっと仕事が混んでくると自分のチューニングが歪んできてしまうことがあるのも事実。
とにかく異なる分野のパフォーマンスやワークショップに行くと、身体やこころが整う。
二人でつくる音楽による整えは、骨の間から気泡の音がするような強い整体とはまた違います。
世界の中でなんらか摩擦を起こして歪んだ心身の、白黒つけられないグレイトーンの加減、出汁の塩梅のような作業となります。
今日はすぐれた音楽セッションによって自分の手技セッションの濁りも洗い出され、身体がチューニングされていくのが分かりました。
言葉の選択の名手は、分野やジャンルを超えて世界を刺激するんですね。
・横からくる音に身体がチューニングされる
・身体の中の随行感
・聴く余裕がないと助けてもらえない
・不協和音で滞空して、間を取る。もったいつける
・腕の円環が閉じていく。にじりよる。
・ないまぜな感じ
今日メモしたレッスン内の単語の選択は非常に身体的で、発声ではなくて人間の動きとして、聴く私の細胞に落ちてゆきました。発声と人間を切り離さないという点、なんだか東洋医学的だとリフレクソロジストになった私は思い、そのように捉えられるようになった時の流れ(とすっとばした30代)にも感謝しました。
そしてうまく書けないのですが、今は五行へ還ってしまわれた、柴崎久美子先生(ハープシコード、チェンバロ奏者)との、1回きりのセッションリハーサルのことをしきりに思い出しました。そしてルネサンスダンスの世界を教えてくれたマエストロ小澤高志のことを。
今日のコンサートは午前と午後と同じプログラムで、間に公開レッスンが入っている構成だったのですが、なんだか14年間をタイムマシンで振り返ったようで気が晴れたのは、なんだろう。
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さて、話変わって本日の語録にもある
・絶対、他人とやらないといられない楽器が歌い手。それなのに人を聴かないのも歌い手。
このフレーズの「歌い手」を「リフレクソロジスト」に置き換えて、「夕べの祈り」を口ずさみながら持ち帰りました。
この歌、「夕べの讃歌」という訳で出会ったわたしにとっては、まるで「屋根の上のヴァイオリン弾き」のテヴィエみたいなオヤジが仕事を終えて夕べの酒を頂けることをハレルヤ、感謝します、と歌っている「仕事の帰り道の歌」のような存在で、自分もオヤジな気分でよく口ずさみます。
Now,now that the sun hath veil’d his light
And bid the world goodnight;
To the soft bed my body I dispose,
But where shall my soul repose?
Dear,dear God,even in Thy arms,
And can there be any so sweet security! ←ここが好きです!
Then to thy rest,O my soul! ←これの2度目も好き!さあ、今日もしごとした!帰るぞ!と聞こえる。
And singing,praise the mercy
That prolongs thy days.
Hallelujah! ←わたしの解釈では、ここはすでに酔っぱらってゴキゲンです!何度も言うし。
(An evening hymn で検索。わたしはこの曲目が”An"なのも好きです)
Henry Purcell(1658-1695)
顔の骨から肉づきを再現する「複顔師」のお仕事を拝見したことがありますが、歌い手として波多野先生が顔から声を想像してらしたので、フットリフレクソロジストは足を想像してみます。
わたしは、歪みのないきれいなアーチと長い第2趾、しっかりしたかかと、傷のない柔らかい皮膚を想像しました。どの肖像画も、顎がしっかりしていて唇が厚く、すこし不敵な澄んだまなざしをしている。