tonenoteトオンノオト 内側の表面とかいろいろ 剖き解し
トーマスが「前脛骨筋」とか「後脛骨筋」とか言う度に、なんだか魔法みたいだったなあ…と気持ちよくなってしまう。あぶない(?)。Tibialis anterior とか Tibialis posterior とかSalagadoola mechicka boola…つまりは「脛骨(Tibia)」って語感、呪文のようです。
昨日展示室showroomで、解剖ライブストリーム受講後の初回のセッションがありました。
今までの指先の感覚に、全身に焼き付けたメスの動きをなぞろうとする感覚がオーバーラップしているのが感じられて、うわあと思う。
剖ける(わける)角度と方向と、強さの意志こと。
ここまでくると私がやっているのはリフレクソロジー(反射学)なんだろうかと、やっぱり疑ってしまうんですけれど、今にさきほぐされよい名が与えられるでしょうから待っていましょう。
解剖も、人体を分けて名付ける作業でした。
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こう、癒すとか元気になるとか、はたまたキレイになるとか言う時に「内側から」とよく宣伝される。
カラダの内側からキレイに。
よく聞きますでしょ。
しかし、もう今はその生理学的な、人間が「何を入れるか」は置いといて。
とにかく、まずは「外側から」だ。
今はそれをやってみたい。
人やヒトに、人やヒトとして、触れて解すのはやっぱり外側からなのだ。
メスの通るラインは介入ポイントのようなこと、
いつそこを通るかは、何枚筋肉を取り去ったあとかというタイミング、
その取り外す順番も大事。
真皮、深筋膜、支帯…と1、2、3と上から取り去って(そんなに単純なものではなかったけれど)、支帯を切ったとたんにそうめん100gのようにまとめられていた腱がすこしバラっとし、そこから始めて分け入るのは今回前脛骨筋(とっても胃経っぽいところ)でした。つまりは、足底を「ほぐす」としたらふくらはぎからだったというのが、なんでもかんでも「足底からアプローチ」と吠えているフットリフレクソロジストにはまず衝撃なのです。
そして、これもわたしの指先を進化させてくれると思うのですが、
外側に表面があるように、内側にも表面があるという意識は、重なったものを取り除いていく体験をしないと気が付かなかったと思います。
ミルフィーユだったとしたら、
こんがり焼けた1枚目の外側表面→ちょっと白い1枚目の内側表面(カスタードクリームが付着)→しっとりした2枚目の外側表面(いちごも乗っかっている)→2枚目の内側表面(スポンジ層に吸い付いている)
これを1枚1枚はがして「あいだ」の関係を仔細に味わうようなマニアックな探求をして、そのパティシエの思い入れがわかるみたいなイメージで、
筋肉にも外側表面と内側表面があって、解剖学の本だと「ヒラメ筋(切断)」の説明のもと、持ち上げられ、下の筋肉に落とした陰までしか描かれない内側表面を、トッドが何度も何度も筋肉を裏返して(べろん)、見えるようにして下さる。そしてまた表に返して(べろん)腱を骨の上に戻してなでなでしたりして下さる。
足底腱膜が損傷をと言った時、脂肪の下にペロッと付いている地面側の外側表面だけでなく、これからは趾の腱とのあいだ、内側表面のこともイメージするだろうと思う。
わける、わかる、ほぐす、理解するのに、まずは外側から間に進みたいと思います。
当然ながら内側には、神経、血管、結合組織、脂肪があるから外側よりわかりにくく、加えて「ひっくり返す」ほどおおっぴろげにしないことが多いけれど、
触れたときにその状態をイメージするような手と眼を専門家は養うのかもしれません。
(もう話ひろがりすぎちゃうからここでやめておくけれど、音楽のアンサンブルの声部にも、楽曲としての外側表面の中に、ソプラノの外と内、接するアルトの外と内、バスの内が実はソプラノの外と一緒に作品の外側表面をつくってたり、する、かも。音符の上側表面と下側表面があるように。結合組織を眺めるような喜びが)
外側からの順番を間違わないこと
境目を見つける目をもつこと
内側表面と外側表面の相互関係も忘れずに見てみること
あいだにあるものを見ること
あいだを見る時には、片方を引っ張ってわけやすくする力が大事
右手のメスだけでなく、左手の鉗子の引っ張りが大事
これはリフレクソロジストにも言えること、刺激をいれている手の角度は大事だが、それをサポートするもう片方の手とのコンビを工夫すると施術は流れが整うだろう
起始と停止だけにこだわっていてはいけない、筋肉はまるでべったりと、骨やらお互いやら全面付着していて、全面起始で全面停止状態
脂肪を取り除くと、繊維の方向が見える(肩関節の綾も本当に芸術的でした!)
日常生活や、芸事の世界にあふれる身体イメージの言葉はちょっと注意が必要。
例えば、「肩甲骨は背中に浮いている」「身体は袋、内臓はその中で水に浮いている」という言葉をわたしは学生時代に、演技指導の一環で身体イメージとして聞いたのだけれど、ずいぶん長いこと逆に自分を苦しめるイメージになってしまっていた。
(ということに、解剖学を学んで気がつきました)
動く中身を実際に見られない時、人は必死にイメージしようとします。
それは形而上学だったり、東洋医学の哲学的な側面の発展にもなり、芸術の世界の原動力でもあるわけですが、
身体に関しては、人間はそれを物理的に抱えて生きざるを得ないため、イメージを間違えるとそのズレに苦しみ続けることになる。
だから、実際に存在して「見える」第3者、モノの例を客観的に使うほうがお互いいい場合もありそう。
見聞や旅とはその引き出しを増やすこと。
赤い と伝えたら人によってイメージが違ってしまうけれど、日本国パスポート、とか
三菱東京UFJの看板、とか瞬時に選択する能力が必要なんではと。
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ーー見てごらん。教わらなくても人体には、音楽が自然に宿っている。そのように私たちを創った神が、音楽を禁じるわけがない。
寝ぼけて考えていた朝に、朝刊のうしろから3ページめに載っていた師岡カリーマさんのコラムにあった。お父様がそうおっしゃったのだと書いていた。
その人に宿った音楽が、うまく人体から出て来るように、
石に宿った動きを切り出す石工や彫刻家のように
その人が「あいだ」に持つ動きが、健やかに表に出て来るように、
混乱していたら、わかる手伝いを手指というメスと鉗子でしている、
ただの手技 ってそういうことかもしれません。