間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

2021 白露 玄鳥去

「わかる」

ということは私にとって「言葉(とか単語)にできる」ということなんですけど

(それは分析グセというのかもしれないけれど)

 

あまり分けないほうがいいことも

 

ときには言葉の一歩手前の段階で(黒白つかずグレイで、面倒で重たくて非常に胆力がいるんだが)抱えて持っておくというのも大事だったり

 

というのは

土を形にして焼くと自然界に不可逆になってしまうように

言葉にした途端にとけないものとして定着するので

何度も反芻することが可能になってしまうので

それが、新しい視点を得る妨げに

なったりもする

 

言葉にした途端にデータ量が減るので

言葉のヘリを脛骨のフチみたいに

なぞって満足してしまいそう

 

土を土のまま抱えておくには

胃力が必要で

 

わからないままにしとくということの

潜在力というか

 

歳をとればとるほどもしかしたら

焦って早くわかりたくなるのかもしれないし

分けたくなるのかもしれないし

 

知ったかぶりが1番かっこ悪かろうね

分からないという言い方を身に着け

いつも、「わかんねー!分けられないです!」と言っていたい。

 

でも境界のわからない他者から

自分の分けどころを教わりたくはない

自分の指で探って私だけのラインを斬り

やっぱり、言葉にしていたい

  

というのは多分、ミドルオブ中年だからかな

体力的にも立場的にも