間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

2021 処暑 綿柎開

柎(はなしべ/うてな)とは萼(がく)の別名だそうです。たしかに綿の花ってそうですね。

 

この日記で「わたしはどっち派です」とか言うつもりは毛頭なく、自分の考えの記録として書いておきたいこと。

 

わたしと夫は、どちらもまだ新冠疫苗の接種をしていません。

わたしとは少々考え方も違うので、そこには踏み込まないと思います。

そもそも、疫苗接種したか、しないかというのはわたしはとても個人的なことで、他人から強制されることでもなく、また暴露するには気を遣うことのような気がします。

 

副作用の様子を刻々と記すっていうのも…わたしは似たことをよく豪雨の報告や台風の経過状況でやりますが、それは自分の身体の外で起こっている気候等の状況で、知っておいたら誰かが災害に備えたり、傘を持って外出したりするかもしれませんから、都市楽師のラッパ的なこととしてやります(その独りよがりな使命感がうざったいところもあります)。副作用は「人によって違う」。つまり「わたしはRH+O型です~!」「わたしは+A型!」とか人々が叫び始めているかのような、違和感が。

 

小学生の時に風疹の生疫苗を打ったかもしれませんが、それが人生最後だったと思う。

インフルエンザのも打ったことはなく、3-5年に1度ぐらい、40度の熱と夜中続く咳にうなされる2週間ほどがありますが、抗生物質が身体に合わず飲むときついのでいつもひたすら自然治癒です。

 

・疫苗を打つということと一回疫病に感染するということとの違いが分からない

・打ったとしても対抗する新しい株がどんどん生まれそうだという予感、3回、4回の接種が必要って人類もつんだろうか。製薬会社は儲かるでしょうけれど。

・副反応っていわゆる「軽い発症」なんじゃないかと思ってしまうのですが、その状態でアルバイトに出かけたくない。

・その前に強いからだを作るという「ストレスを遠ざける、睡眠、食、運動」といった基本のキを、副反応経験したからと軽んじる傾向ありませんか。

・mRNA疫苗というのが、大量生産に向いた時短の新技術であることが気になる。生疫苗で開発されたら少し警戒心が減るかどうか…わからん。

ある厳しい状況への「適応」というのはあると思うんですけれど、「反応」は、花粉症や食物アレルギーや、人への拒否と同じく、いいイメージがないのです。その抗原を遠ざけるか、自分が去るか、よい距離を置くしかないと思っている。

・で、「国内知見をとってると遅れる」と昨日記者会見で仰っていたが、その「遅れ」ってそんなに悪いことですか?と思っています。

 

医療逼迫って、個人の身体性や戯言を圧倒的に凌駕する迫力があると思います。それは「死」を味方につけているから。事実として。真剣に受け止めたいと思う。わたしも何週間後かに死んで、「やっぱりねー」って言われたりする可能性は否めない。

 

けれど打ってくださいと言われるときの枕キャッチというか、集団を動かすための一見正義なフレーズはみんなもっと懐疑してよいと思う。大切な人を守るため?パスポート?

接種しないことは罪ですかね。

 

 

わたしは賭けにいのちを賭けたりしませんが、コンコンと、そこのところを説明して納得させてくれる言論が欲しい。

まだ接種予約戦に加われず、粛々とアルバイトに通うと思います。

 

感情的なのと感覚的なのは違う。私も違和感を丁寧にシンプルに伝えられるようになりたいものです。

 

ワクチンとは