情報とか、報道について。TyphoonFaxai 覚書
ここのところ、報道とか情報について考えていました。
何度も繰り返すようで恥ずかしいですが、わたしは「うまく知らせることができない」ヒトなので…
何を言っているか自分で解らなくなることがあるし。
本当に知らせたいことがある時は、どうやったら端的に多くに伝わるのか、
考えなくてはならなかったのです。
SNSに関して言えば、「いいこと書いてあるのに、シェアしにくい投稿だ」と苦笑されたことが何度もあります。
つまり、役に立つ報せと、私的な情を併記する癖があります。
私が発した質感の情報であるということに執着しているため、上記についてはもう、あきらめています。私的な「事情」とその私が得た「報せ」は切ることができないと判断したのが、いつかの投稿。これからもそれで書き続けると思います。
しかし「報道」について思う。
私は報道のプロフェッショナルではないし、かといって市民メディアにも実は惹かれない。
しかし今回台風で事件が自分事になったとき、報道のプロフェッショナルだと思っていた人たちの、動きがどうも遅いような気が。
あれ、あんまり頼りにならないのかもしれない、待っていても情報は来ないのでは…と思ったとたんに、いま自分事になっている自分がマーキュリーにならないといけないと思ったのは確かです。
そういえば十音にはTVがないのです。
そして興味深いことに、そのことがかえっていらない情報を削ぎ、必要な多くの情報をもたらし、出発させたと思います。
「テレビにはなんの報道もない、情報が入ってこない」という報告何件も見ましたが、テレビから得るものが最初から何もない自分たちにとっては、その躊躇や疑問を呈している間がなかったのは幸いでした。最初から別の方法で情報収集しようとしていました。
それに、きっと内閣改造とか、改憲の決意とかばかり流していたのでしょう?(←見ていないので知らない)。気が乱れるから見ないでよかったのだと思います。笑
南房総へ行った次の日の朝、テレビが一斉に被害状況を出したようで、驚いたわたしの親戚から電話がかかってきました。そのころには、自分たちの日常の仕事を始めていたので、彼らの興奮度にこちらがびっくりしたりして。
そのあと家族がいる人たちやフリージャーナリストが現地に入りはじめて、支援物資の要請などSNSで流れ始めて、世間が「あれ、千葉、ヤバイのか…?」と思い始めたのはきっと 千葉の人たちが扇風機のない密閉灼熱の部屋で2晩は我慢したあとです。
そして、そのころ私は自分のFB投稿をみつめ、これを私の友人がLikeしたりシェアしたいだろうかと考えました。怒りに任せたところがあって、情報は良いのですが、文章に品がありませんでした。
とても怒っている絢子さんを、みんな怖がっているのでは…?と思いまして(そんなことはないですね)、書き直しをし、ブログにあげ、また、自分が得ていた情の報せをもう少し書き足しました。
*
さて、いいこと言っているのにLikeしにくい投稿に共通しているのは、
ウィキペディアによれば、 以下の、「適切な文脈を確立する」ところ。
うまくコントロールできていない。
情報と判断や意識の有無
人の場合の実際 [編集]
「情報」と「知識」の複雑な定義は意味的・論理的な分析が難しいが、情報から知識への変換の条件は重要なポイントであり、特にナレッジマネジメントにおいて重要である。知的労働者が調査し判断を下すとき、次のような過程を経る。
- 効率的に価値と意味を引き出すために情報を吟味する。
- 可能ならばメタデータを参照する。
- 考えられる多くの文脈の中から、適切な文脈を確立する。
- その情報から新たな知識を引き出す。
- 得られた知識から、何らかの意思決定または推奨を行う。
Stewart (2001)[12] は、情報から知識への変換が現代の企業にとって価値創造と競争力の中核であり最も重要なものだ、とした。
マーシャル・マクルーハンはメディアとその文化的影響について、様々な人工物の構造を参照し、それらが人類の行動や思考様式を形成しているとした。また、そういう意味でフェロモンも「情報」だと言われることが多い。
例えば、今回わたしを怒らせたのは政治権力の動静でしたが、
今、必要とされている情報と政権批判を併記することを避けたほうがいいと思ったので、修正しました。
ツイッターに関して言えば、
必要な人に届けたいツイートと、
自分の感情を書きなぐるツイートをわける。
前者は切羽詰まっているので、ハッシュタグ(#)をつけて「これについて報告しますよ」と情報を削いだ上で、見たままを書く。こう見受けられた、ということはそのように書く、など。
今回 #富浦や #多田良 で検索して情報を集めたのですが、
「自衛隊などの給水支援も、まだない状況です」
と書かれたものと
「まだ自衛隊も来てくれない。行政は何をやっているんだ!」
と書かれたものとでは、同じ報告なんだけれど前者のほうがよほどこちらを冷静に突き動かしてくれる。体制の批判はその時必要な情報ではなかったので人をいらだたせるというか。
こんなことを覚書いているのは、今に自分が被災者になる時のため。
インターネットが全くつながらなくなることは目に見えているので、
TVがないのと同様、ネットもないことを前提に災害対策をしておかなくてはいけないと思う。
今回千葉で思ったのは、「自転車のメッセンジャーリレーは使えるかもしれません!」ということ。
昔の映画みたいに、山賊に襲われたり(?)、雷に打たれたりして途絶えることがある、かもしれませんが、短い距離のリレーに設定して道路を解放する。
ネットワークを組織できたらこんなに心強いものはないのだけれど…行政は脚の強い飛脚を何人も組織しておいたらよいのではとか思いました。
今や防災訓練は情報ネットワークの訓練なのでは。
今日もこの辺にします。
防災バッグの中身を確認しなくちゃ。