間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

tonenoteトオンノオト 類とか型とか

心許ないし、政治家に意見のメールを出して変革を望んだり、嵐を起こす羽ばたきの一つになろうというようなエネルギーは残っていないのだけれど、
自分の半径1.5メートルほどの平和をそれこそ必死に保とうとしている。


微笑むこと。ぶっきらぼうにペイペイのバーコードを突き出すひとびとの小さな「はーい」とか「ありがと」の声を聴く。レジ袋はいかがしますか?と問えば必ず見られる、反応(または無反応の)豊かな個性。みんな答え方が違うのだ、その一瞬の答え方にぽたっとその人が出る。


1時間お店にいれば、何十人かの人々がわたしを通り過ぎていく。そこで何十人がそれぞれ「ぽたっ」と落としていく。
私の中で、一滴が溜まっていって、その日にお店を訪れた人々全体を象徴するペルソナが形作られていく。


今日は、シャイでせっかちだけれど優しい方たち、とか。つまり目を合わせないしカードは機械の準備が整わないうちに差し込むんで、エラーが出るんだけれど、そのあとは大人しくわたしと一緒に問題解決に臨んでくださる。わたしもだんだん、手際よくリードできるようになっていく。所作が必要。まだ差し込むな、とかどうぞ、とかいう手の動きや声の誘導。


1年前、マスクや消毒液やハンドソープや、ペーパー類が品薄だった時には、前者薬店のペルソナは不安と恐れのあまり理性が崩壊していて、現場のスタッフは本部との板挟みでひたすら耐えていたと思う。罵倒の声も感謝の声のほうも、他人に聞こえるようにと大きすぎて、全く対等でなかったのを思い出す。接客はわたしの業務ではなかったけれど、接客の担当者たちがあまりに疲弊していて、案内せざるを得なかった。


1年たって、考えて動く人が増えた。
何にも100%頼り切ることはできないということを知って、
スタッフに当たってもないものは出てこないことを知り、
ペルソナの微笑みには諦めや疲れがにじみ出ているけれど、ちょっとユーモアも感じられる。


出掛けて、何かを買って帰ることも、生活をほんのちょっと変えるための旅なのだ。
お店に入ってきた時とは違う身体で、出ていく。
その細胞にわたしからの誠意が、いい作用をしてくれるといいなと思う。


雑司が谷に戻り、セッションをすれば、そこでは2時間に1人を相手に一つの足に1000回以上の問いを差し込むような時間を過ごす。
ぽたっとどころか、クライアントの深い湖に一緒に潜っていくかのような密度。今日は急流、渦潮あり、明鏡止水とか、濁って視界がきかないが一緒に先に進もう、といったチャレンジをして、底のあたりから水面の光を見上げて、一緒に上がってくる。耳抜きが必要な人もいる。


そんな毎日の中で、自分の身体感がずいぶんと変わってきていて、人人を濾すフィルターとして健全に美しくたもたにゃならん、というような…つまり自分自身の芯は前よりもたくましくなったのですが、憑代として外から眺めているような気分になるのです。
セラピストとしてのわたしの身体はやはり通り過ぎる人数分の情報処理にエネルギーを使っているらしく、ジグザクしながらゆるやかに体重が減っていく。筋肉量はもっとゆるやかだけれど、増えていく。今度、「食べる女」をじっくりと分析してみようではないか。

 

2021年の今日のフェイスブックに書いている。

このころ、ドラッグストア2年間の研修がはじまったばかりで、接客道にもまれていた。
マスなひとと向かい合うこと、一人ひとりの比重を軽くし、あまり自分の中に残さないでいくことを学びつつあったと思います。

それでもこの「ぽたぽた」が集まった重さは、金体質のわたしのコロナ期のちょっとした宝石にも傷にもなっている。

 

明日2023年5月8日、「新型コロナウィルスの5類移行」というのがある予定で、
都道府県別の新規感染者数が発表されなくなるとのこと、新聞からこの表が消える。感慨深い。

 

2020年3月末に、慶応大学の長谷川直樹先生が、東京新聞の「世界と日本 大図解シリーズ No.1450」に寄せた『果てしなき感染症との付き合い』というタイトルのコラムが、その先何年間か続くであろういろいろな体験を、私に覚悟させてくれた。

tokyo-np.hanbai.jp

冷静で客観的で、諦観もあって、しろうとに解り易く、最後のひと段落がちょっとやっつけっぽい(?)のも新聞社とのやりとりが見えるようで、わたしは名文だと思ったのですけれど、その後は全く、コロナ関係ではお名前をお見掛けしない。日経メディカルの呼吸器疾患医療の対談なんかで拝見するけれど。

 

今はもう思い出せないぐらい、ヒトは動揺していたし、さまざまな意見に翻弄されていたけれど、

思えば最初に読んだこれのおかげで、わたしは、3年間のこのウィルスとの自分なりの間合いを決めることができ、大して動揺せずに淡々と過ごせたほうだと思う。

(その後この感染症についてもワクチンとかについても、興味がわかず勉強しなかったです。テレビもないし、積極的に取りに行かないと情報は得られなかったんだけれど、今回本当に生き延びるためにはその情報ではない気がして。わたしはとにかく、新型コロナウィルス感染症に関しては、やる気のないナマケモノでした)

 

ガツンと一発の、感染症との「付き合い」という言葉が新鮮だったのです。その時は、みんな「戦い」という言葉を使っていて、それはしろうとにはなかなか混乱する言葉だったのです。思えばあの文章を読んだ時から、わたしも果てしなきヒトとの付き合いが、ごろんごろんと始まったのだった。

 

ドラッグストアで検査管理者なんて担当が出来て、検体を扱いながらもうなんだよと思ったけれど(無料検査ももう終了ですね)、そこでもウィルスに恐怖というよりは人間の欲望のほうに困惑していました。わたしとウィルスは協力してフィルターを張り、そこを通して人間を濾しとってぼんやりと見ていたと思います。

 

何にも終わっちゃいないのだけれど、
何にも審判が下っていないし、
整理もついていないけれど、
1日1日自分たちを讃えながら生きていくんでいいか。オチなし。

 

おつかれ手waza市 は5/21に開催です。ぜひご予約を。2020年9月からの2年半ぶり開催ですから。

ayakoxyamazaki.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

tonenoteトオンノオト 決定的な

カレンダーが円形の方たち(例えば、地球暦®の界隈の方とか)は「今度って、何度?」という問い方が定着しているそうですが、
十音は、「今度お茶しましょう。」というフレーズが苦手らしい。訳あって最近その言葉をたくさんいただくようになって、自分の身体がその瞬間混乱するので、気が付きました。

 

まず、「お茶」というのがわたし、どうしたらいいんだー!という感じで。お酒を一献、と言われるとそこでの振舞は大体予想が付くのですが、酒精の入らない会合って、もうぜんぜん、想像がつきません。緊張してしまってお茶の味も分からないだろうし、お菓子は好きですが、その味も分からなくなるのはいやだし、肝心なお話しの内容が身体に残らないかもしれないなどと不安になります。お茶する十音の何が面白くてお茶したいと言ってくださるのだろうと思い挙動不審に。

 

そして、「今度」と同じく、
いつか、お茶しましょう
いまに、お茶しましょう
お会いできる日を楽しみに

 

が苦手です。日時の希望が書いていない、「締め」の言葉としての、または社交辞令としてこのメッセージで締めくくられると、どうしたらよいのか分からなくなる。これって私の障害だ。

 

最後のは自分も発してしまうことがある。私はその人に会いたいと思っていて、でも酒の席を設定する相手ではなく、その人から私にアポイントが入らないかなと淡い期待を抱いている時。仕事の話の時も多い。

 

私はこの何年間か、このオンラインの個人対個人のやり取りを極力避けてきたのだということにも気が付きました。訳あってラインやメッセージやメールでの、個人対個人のやり取りが増えているためです。SNS上に複数人数が読める状態でメッセージや日記を発するのに比べて、一対一の、決定的な、逃げ場のないやり取りに持ち込むような気がしてなかなか難しい。

 

「わたしがわたしらしくあろうとすると、必ず誰かを傷つけてしまう、なぜなんだろうね」

 

というセリフをノートに書いたのは、同じ高校の上級生だった。当時1年生だったわたしにはその人の天真爛漫(にみえる)な性質は大変魅力的だったのですが、17歳とかからそんな風に悩んで大変な人でした。46歳のわたしも今、自分が一対一になった時の凶暴性を恐れています。凶暴というか、私はすぐ失速するので、ある程度の勢いをもっていろいろと進めないと何事も成り立たないのです。本当はじっくりと、あと一歩の交渉を恐れてはいけないはずです。
相手と自分の力をもっと信じて、やり取りの密度はもっと高くたっていいだろうに、間合いに悩みます。

 

いずれにせよ、これから、ご縁のあった方たちにオンラインで夏のご挨拶を始めます。
その先のライブセッションへお誘いする、リハビリみたいなご挨拶です。

 

tonenoteトオンノオト 手技と身体観事始め

指揮者/声楽家の櫻井元希さんが世話人をされていた、光岡英稔先生BUGAKUスピンオフ という講座に参加したあとのセッションは、

施術の所作と、縦気横気とということが気になって仕方がなく、

手技すべてが礼式みたいに思える十音です。それも重い。

 

施術をした後、左右対称の正座になってもらって、定位/不定位を確認すると、

本日はお二方がお二方とも、両定位。

後の方は、施術前の左不定位も確認してからの結果だったことに加え、

リセット動作をしてもらってからもう一度確認しても、

まだ確かな両定位だった

それがいつまで続くのかはわからず、

また、定位=良い 不定位=悪い ではないし強弱でもないということなので

クライアントがかなりがんとした感じの両定位になるということの良し悪しは判断がつかない。

まずは、十音の手技ではそういうことが起こっているということを自覚します。

 

逆に、両不定位にする手技もありそうだと予感する。

 

先に書いたように、かなり「機織り」をイメージしてセッションしているけれど、

縦気に対して、髪を梳くようにとか、横気に対して、花びらを散らすようにとか。

シンプルな手技なので、何通りも見立てが可能。

新しい世界を知ると、見立ての引き出しが増えて、セッションの時間の密度が濃くなります。

 

それにしても、術を施すと書く施術は十音の望むスタンスと違和感があって、

上記みたいなことと、「術を施しています感」なんかが一緒になると、ドヤ顔だけでいいことの起こらないヤバいセラピストになってしまうのだろうなあと思う。

刺激というのはクライアントの身体が起こすリアクションへの「起」の部分でしかないので、どこまでもシンプルにしたい。シンプルな刺激のみが複雑さに向かい合える。

 

補足とか調足とか。足りている状態ぐらいに調える。手技調足師 とかどうでしょうか。やっぱり何やってるか分からないですかね…

 

たぶん、触覚と気に関することってAIにはなかなか難しい分野だと思うので、AIをすごく怖がって逃げたい十音は、どこまでもその説明のつかないところ、言葉のいらないところへと潜っていくのだと思います。

 

今日の施術は、アロマストーンにブラックスプルースとベルガモットを垂らして行った。ちょっとミントも焚いたけれど。

このアロマストーンは、今度5/21の「雑司ヶ谷手waza市」でもご一緒する

気功的生活のススメあんのん たにがみあずささんが下さったもので、

金魚のひれとかが石膏で美しくかたどりされています。福。

 

 

tonenoteトオンノオト 調える

手を加えて並べ替えるのではなく、来るものに備えるというイメージで、この文字のととのえるが好きである。

 

食べていけるのか、と気にされることもあるけれど、
その「いける」ってどれぐらいの余裕や可能を指しているのかは人それぞれ。
そう問われた時に、今は、自分を信じているので、何とかするでしょう…としか答えられない。その答えで自分は満足している。

 

大型連休前に信州を訪れ、2日間の間に仮住まいの内見2つと、笹原の小さな家の樹木の剪定と、野草の採取をする。

 

2つの不動産会社にお世話になり、その違いも面白かった。
夫の山﨑氏とも本命に定めていた、2件目のご担当者はさらりと大家さんが誠実な方であることを話しに織り交ぜ、内見が終わるころにはなんだかおだやかで明るい生活が待っているような気分になってにこにこしてしまった。

超スピードで審査も行われ、無事通ったあとで、宅建士資格を持つ夫は彼女のことをベテランだな…と感嘆していた。

 

その足で、富士見駅前の「ウツリスムステーション」を久しぶりに訪ね、これからたっぷりお世話になる職員さんたちにご挨拶。雑司が谷十音の葉書もお渡しして、「足が細くなりますか?」なんて訊かれてそうかそういう期待も寄せられるんだな、と知る。

 

富士見には「森のオフィス」という有名なコワーキングスペースがあるのですが、近くそこも、移住者としてお訪ねすることになるだろう。


そして、蓼科山霧ヶ峰を見ながら茅野市へ渡り、笹原に落としてもらって、ひとり樹木の整理にとりかかる。ここは私の持ち物ではないのだが、少しずつ修繕しながら、どのように活かせるか任せてもらえることになっている。

 

土用中ではあるけれど、春に吹きあがった木気が剪定によってつぶされるのではなく、横にも勢いよく広がる。モノコトの流れがよくなり、魂がうまく扱われ、エネルギーを減ずることなく十音の世界を包む。名手の奏するシンバルの音のよう。発するにはエネルギーがいるけれど、その達するところはどこか他力本願で見守ることができる。

 

途中から父もチェーンソーで参加したけれど、オイルの匂いはこの家に似合わないな…と思う。十音は小型ののこぎりで、ギコギコやったが、イチイの木は柔らかく、軽いので、そっちのほうがはかどる。

 

コロナ期に「古民家を手に入れる」という宣言をしたあと、昨年ぐらいからどっと、古いものの整理や始末の役割が降ってくるようになって、自分の始末能力のようなものを試す機会が増えたのはふしぎなことだ。
十音は片付けや始末をするときは「映え重視」で、ビフォーアフターが劇的に変わるところから手を付けていくのだが、今回は今までで最もバエた(笑)作業だったかもしれない。

 

イチイの木は炎のよう。火気があるなと思った。

 

あんまりたくさん樹を切ったので、くずをたくさん浴び、迎えに来た夫がその姿を見てぎょっとして、温泉へ連れていってくれた。

お馴染の時刻の高速バスで、東京へ戻り、いろいろが進んだことに祝杯をあげる。

 

(何回か、である調でブログを書いてみたけれど、やっぱり違和感。書きたいニュアンスが、である調だと出ないみたいです。)

 

tonenoteトオンノオト 経緯 経絡 織り

糸へんは興味深い。私の名も。

 

光岡BUGAKUスピンオフからの、縦気と横気についてずっと気になりながらセッションをしている時、

https://twitter.com/tonereflexology/status/1651201831908032513?t=byKFcRa6OZL7SUhZUhnK-Q&s=19

施術が織物になり、

セッションでクライアントを包むゆったりした魂魄の布を織るというイメージが浮かんで、

また手技が変わったのではと思う。

 

十音は現実的だがファンタジーの力を信じているので、

足からなるべくたくさんの五行に基づいたイメージを引き出せるようにすることが鍛錬。

足に糸口をたくさん見つけて、足から紡ぎ出せる糸の種類を増やす。

 

昨日は鬼子母神参道沿いの雑司ヶ谷展示室にて間借り施術「律rhyth」へのご参加やご興味をありがとうございました。

雨音が重奏で、それはRC構造のマンションでは聴こえない音なので耳を澄ませてしまった。

管理人の久保さんのところにご近所の楊さんがいらして、朝ごはんに食べるという、黒米、棗、くるみを煮たお粥をわけて下さった。

土用の胃に染みる。

代島さんの器を購入する。

今使っている平皿と合う、お椀を。

ご飯において、食器のもつ雰囲気は大事だ。


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今日は朝から手waza市のちらしを作って、キアズマ珈琲で豆を買ったあと、バスタから高速バスに乗り込む。

南信へ。

仮住まいの内見を2件ほどする予定。

 

あとは笹原の小さな家の枝払い。

坂の途中の角地の家で、灯台のようになれる可能性を感じる。

ずっと放っておかれたので今は沈んでいるが、きっと家が笑う日が来る。


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tonenoteトオンノオト 武学

 

アタマを丸めるように、足の爪をいったんぎりぎりまで切ってみる。支えになるものなので、趾の先端より短くはしないものなのですが。時間をかけて左右差を見てみたい。昨夜声は魄、金、肺、皮膚と感じたので爪にも、何か出るかもしれません。

 

十音は、ここ数年ぶりに、2日も続けて、夜、外で酒を飲んでいた。

 

一昨夜は「ことほぐし」でもお世話になっている あわいものや でウィスキーのお湯割りを3杯。

昨夜は「光岡英稔BUGAKUスピンオフ- 課外授業 ワークショップ『異なる身体観による発声の変化を体感する会』vol.2」の懇親会 で生ビールジョッキを3杯。

 

どちらも23時過ぎまで飲んで、ほとんど終電で雑司ヶ谷へ帰ってきたが、どうも自分の中で夜中とか、早朝とか、今は真昼である、とかの太陽の位置を感じとる軸がぼやけている。

あまり時計を見ていない。

 

今日はこれから展示室showroom さん 2階で間借り施術「律」でそのあともう1セッション高田の部屋であるのですが、淡々と、自分を運んでもらって、ただの刺激になろうとしている。

 

昨日のフェイスブックページより。

 

3年前のこの時期は、
「ほぐしをほぐす」という十音の思考の一環で、#ウチの足のものがたり という実験をしていました。
.
「しかし、会えないからこその、遣り取りがあります。
セラピューティック・リフレクソロジストは、こころや全体を使って足からその人を観る力をトレーニングしてきました。 
とにかく、足を気に掛けるにはうってつけの時期です。」
.
ひとの足に、疾患の種を見つけて指摘しドヤ顔でアドヴァイスをする 
のだけは避けたいことでした。
十音は足の写真からのアセスメントと五行論のファンタジーを結びつけることにし、結果55組の足から39の物語できました。
好奇心いっぱいの水鳥
ちょっと宙に浮いている庭
治水がテーマの王国
真珠によく似た人魚姫
大地のこと
真っ白なつきたてのお餅
エネルギッシュなオレンジの実
大きな樹と3つのりんごの物語
雷の話を聞いてあげる白樺と、小さなリスの話
勇敢な火消とちょっと気弱な堤防守
銀のレース細工たち
美味しいワインになるぶどうの実
ずばり脾経
ちょっと不機嫌な台風
鹿の角からできた角笛
ゆでたまごの振り子
鳥につついてもらいたい柿
一匹オオカミの金平糖
一所懸命な洗濯ばさみ
美しい巣をつくる白いふくろう
気を吐く白い雲
思いやり深い銅
お琴と絹の弦と象牙の琴柱の関係
転生を繰り返す白桃
お日様を見て跳ねてしまった月ウサギ
極上のセーターを着た白い羊
前は火打ち石だったマッチ
ふかふかリーフパイ
3つの鉢植えの水はけ
判断力のあるUSBハブ
気球と炎の気になる関係
くちばしは金色の飴細工のひよこ
素焼きのちょうちょ
極上チリソースになる予定のトマトととうがらし(肉まんとともに)
海に洗われるモモイロサンゴ
ころころ揺れるスノーフレーク
白くて甘いことに飽きたブールドネージュ
石にもべっこう飴にもなる琥珀
赤い大輪のダリアと仲良しミツバチの話
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インスタグラムの方には後ほどストーリーズに企画のURLを貼っておきます。
.
5月はじめは、
写真ではなく実際の施術付きで、
ご一緒にあなただけの物語を作るセッションをしたいと思います。
.
詳細後ほど
.
なお、普通の日課セッション90分も毎日受付中です。

tonenoteトオンノオト 弥生

 

↑ CDブックレット 美しい

 

 

昨日ベアータ・ムジカ・トキエンシスの、ルネサンスポリフォニーを歌ってみるワークショップが終わって

参加者としてではなく会場やロビーを漂っていたわたしは

音楽の場のスタッフという不思議な自分だけに与えられた時間にとても満足していた。

手技施術家としてもそうですが、

究極の中立で在るというのは本当にクセになる。

すべてに属していてすべてに属していない、あれは誰にも入りこめない隙間なのです。

 

歌手の江原陽子さんが、舞台のオーケストラと観客の間のあのゾーンのことを目を輝かせて、わたしにしか経験できないところなの!とインタビューで仰っていたのを思い出す。

beatamusicatoki.wixsite.com

そのワークショップは、スカンデッロさんという、17世紀初頭に活躍したイタリア人作曲家のアカペラ作品を参加者で作り上げるというもので、

 

合唱だとソプラノ、アルト、テノール、バスと何人か(時には何十人か)ずつで担当して歌うのは経験ある方が多いと思いますが、様式としては「ルネサンス多声音楽」のこの作品は一人いちパートを担当する。

 

今満開のジャスミンのように蔓が絡むように、うねうねと連なるルネサンスの音は、見失ったり聴き失ったりすると迷子になるので、たいへんスリリングな体験となります。

 

いつもそういう作品をとりあげてコンサートをされているベアータ・ムジカ・トキエンシスというマニアックな人たち。

 

彼らのリハーサルにお邪魔したことがあるのですが、非常に電気抵抗が強い照明みたいなリハーサルで(笑)、胆力がないととてもできない音楽づくりをされる。

今回、ワークショップではルネサンス多声音楽の新体験に加えて、ベアータの音楽の作り方のほんの一部分も、参加者は体験したのではと見えた。

待つ体力のないせっかちな身体をした参加者は途中でばててしまう。声がというのではなくて、精神的に。個性的な作り方をする団体だと思う。

 

今、グループ結成10周年記念のCDを聴きながら思うのは、そんなこと。

ルネサンスポリフォニーを歌うというのは、経と絡、両方に身を置き続けるということなのかなと思う。一人で立ったり、絡んだり、ということをいったりきたりしながらうねうねと立ち昇っていく音楽は、ヒトへの贈り物。

 

最後の成果発表会で、何分もないその時間内に、そのグループの物語が集約されているのを見聞きして、演奏も足裏も同じだと思った。

 

信州でもベアータの演奏会、開催させてもらえないかなあ!教会とか体育館とか、響きがいいところがたくさんありそう。リベラル・アーツとしてルネサンスポリフォニーはお出汁たっぷりです。

 

 

ドラッグストアの従業を終えてから1か月が経った。

 

実は、終わったばかりの頃は、周りの方からも、「おつかれさま」という言葉をたくさんいただいて、自分でも正直つかれたわ、と毎日思っていた。

でも先日穂高養生園に滞在したあたりから、「つかれた」の一言でこの3年8か月を片付けていてはこのコロナ期の自分が泣いちゃうと気が付く。

貴重な経験を積み、手技療法家としての十音は旅をして帰ってきた感がある。

 

3月末 ボディワークでアタマを休め、

4月初め 信州に滞在し自動車運転訓練という新しい経験で神経をいっぱいにし

父からもらった風邪が東京で通過していく自分の身体をじっくりと観察した

薬店に制服を返して、退職(そこまでは有給消化)

セッションをいくつか、毎年その日に来て下さる80代のお客様とも。

旧知の友人と久々に家飲みをしたりして、

充電を完成させるべく、穂高養生園に滞在もした。

身体が、水分と酸素をたっぷりと補えたころ、

またたくさんのお客様と会いたくなり、

イベントを続けざまに2つ復活させた。

 

律rhyth-十音の間借り

ayakoxyamazaki.wixsite.com

 

雑司ヶ谷手waza市

ayakoxyamazaki.wixsite.com

 

SEO対策というのがまだ未熟で↑過去の紹介文になっちゃってますが。

 

招客はどうよというところですが、明後日の「律」はGW前でなかなかご都合難しそうで、しかし十音はまどから欅をながめながら、古くて美しい生活道具に囲まれて、展示室showroomの2階でゆっくりしていますので。ご縁があればぜひ。

 

今は「経験を積んだ」自分の身体を誇りに思い、このわたしを五行はどのように使うつもりだろうというような楽しみな気持ちになっている。

 

ブログも、十音の営業部長として、走っていってもらわないとな、と反省し、出会った人とかあったこととかもう少し頻繁に軽く書くつもりです m(_ _)m