tonenoteトオンノオト 調える
手を加えて並べ替えるのではなく、来るものに備えるというイメージで、この文字のととのえるが好きである。
食べていけるのか、と気にされることもあるけれど、
その「いける」ってどれぐらいの余裕や可能を指しているのかは人それぞれ。
そう問われた時に、今は、自分を信じているので、何とかするでしょう…としか答えられない。その答えで自分は満足している。
大型連休前に信州を訪れ、2日間の間に仮住まいの内見2つと、笹原の小さな家の樹木の剪定と、野草の採取をする。
2つの不動産会社にお世話になり、その違いも面白かった。
夫の山﨑氏とも本命に定めていた、2件目のご担当者はさらりと大家さんが誠実な方であることを話しに織り交ぜ、内見が終わるころにはなんだかおだやかで明るい生活が待っているような気分になってにこにこしてしまった。
超スピードで審査も行われ、無事通ったあとで、宅建士資格を持つ夫は彼女のことをベテランだな…と感嘆していた。
その足で、富士見駅前の「ウツリスムステーション」を久しぶりに訪ね、これからたっぷりお世話になる職員さんたちにご挨拶。雑司が谷十音の葉書もお渡しして、「足が細くなりますか?」なんて訊かれてそうかそういう期待も寄せられるんだな、と知る。
富士見には「森のオフィス」という有名なコワーキングスペースがあるのですが、近くそこも、移住者としてお訪ねすることになるだろう。
そして、蓼科山と霧ヶ峰を見ながら茅野市へ渡り、笹原に落としてもらって、ひとり樹木の整理にとりかかる。ここは私の持ち物ではないのだが、少しずつ修繕しながら、どのように活かせるか任せてもらえることになっている。
土用中ではあるけれど、春に吹きあがった木気が剪定によってつぶされるのではなく、横にも勢いよく広がる。モノコトの流れがよくなり、魂がうまく扱われ、エネルギーを減ずることなく十音の世界を包む。名手の奏するシンバルの音のよう。発するにはエネルギーがいるけれど、その達するところはどこか他力本願で見守ることができる。
途中から父もチェーンソーで参加したけれど、オイルの匂いはこの家に似合わないな…と思う。十音は小型ののこぎりで、ギコギコやったが、イチイの木は柔らかく、軽いので、そっちのほうがはかどる。
コロナ期に「古民家を手に入れる」という宣言をしたあと、昨年ぐらいからどっと、古いものの整理や始末の役割が降ってくるようになって、自分の始末能力のようなものを試す機会が増えたのはふしぎなことだ。
十音は片付けや始末をするときは「映え重視」で、ビフォーアフターが劇的に変わるところから手を付けていくのだが、今回は今までで最もバエた(笑)作業だったかもしれない。
イチイの木は炎のよう。火気があるなと思った。
あんまりたくさん樹を切ったので、くずをたくさん浴び、迎えに来た夫がその姿を見てぎょっとして、温泉へ連れていってくれた。
お馴染の時刻の高速バスで、東京へ戻り、いろいろが進んだことに祝杯をあげる。
(何回か、である調でブログを書いてみたけれど、やっぱり違和感。書きたいニュアンスが、である調だと出ないみたいです。)