tonenoteトオンノオト 弥生
↑ CDブックレット 美しい
昨日ベアータ・ムジカ・トキエンシスの、ルネサンスポリフォニーを歌ってみるワークショップが終わって
参加者としてではなく会場やロビーを漂っていたわたしは
音楽の場のスタッフという不思議な自分だけに与えられた時間にとても満足していた。
手技施術家としてもそうですが、
究極の中立で在るというのは本当にクセになる。
すべてに属していてすべてに属していない、あれは誰にも入りこめない隙間なのです。
歌手の江原陽子さんが、舞台のオーケストラと観客の間のあのゾーンのことを目を輝かせて、わたしにしか経験できないところなの!とインタビューで仰っていたのを思い出す。
そのワークショップは、スカンデッロさんという、17世紀初頭に活躍したイタリア人作曲家のアカペラ作品を参加者で作り上げるというもので、
合唱だとソプラノ、アルト、テノール、バスと何人か(時には何十人か)ずつで担当して歌うのは経験ある方が多いと思いますが、様式としては「ルネサンス多声音楽」のこの作品は一人いちパートを担当する。
今満開のジャスミンのように蔓が絡むように、うねうねと連なるルネサンスの音は、見失ったり聴き失ったりすると迷子になるので、たいへんスリリングな体験となります。
いつもそういう作品をとりあげてコンサートをされているベアータ・ムジカ・トキエンシスというマニアックな人たち。
彼らのリハーサルにお邪魔したことがあるのですが、非常に電気抵抗が強い照明みたいなリハーサルで(笑)、胆力がないととてもできない音楽づくりをされる。
今回、ワークショップではルネサンス多声音楽の新体験に加えて、ベアータの音楽の作り方のほんの一部分も、参加者は体験したのではと見えた。
待つ体力のないせっかちな身体をした参加者は途中でばててしまう。声がというのではなくて、精神的に。個性的な作り方をする団体だと思う。
今、グループ結成10周年記念のCDを聴きながら思うのは、そんなこと。
ルネサンス・ポリフォニーを歌うというのは、経と絡、両方に身を置き続けるということなのかなと思う。一人で立ったり、絡んだり、ということをいったりきたりしながらうねうねと立ち昇っていく音楽は、ヒトへの贈り物。
最後の成果発表会で、何分もないその時間内に、そのグループの物語が集約されているのを見聞きして、演奏も足裏も同じだと思った。
信州でもベアータの演奏会、開催させてもらえないかなあ!教会とか体育館とか、響きがいいところがたくさんありそう。リベラル・アーツとしてルネサンスポリフォニーはお出汁たっぷりです。
*
ドラッグストアの従業を終えてから1か月が経った。
実は、終わったばかりの頃は、周りの方からも、「おつかれさま」という言葉をたくさんいただいて、自分でも正直つかれたわ、と毎日思っていた。
でも先日穂高養生園に滞在したあたりから、「つかれた」の一言でこの3年8か月を片付けていてはこのコロナ期の自分が泣いちゃうと気が付く。
貴重な経験を積み、手技療法家としての十音は旅をして帰ってきた感がある。
3月末 ボディワークでアタマを休め、
4月初め 信州に滞在し自動車運転訓練という新しい経験で神経をいっぱいにし
父からもらった風邪が東京で通過していく自分の身体をじっくりと観察した
薬店に制服を返して、退職(そこまでは有給消化)
セッションをいくつか、毎年その日に来て下さる80代のお客様とも。
旧知の友人と久々に家飲みをしたりして、
充電を完成させるべく、穂高養生園に滞在もした。
身体が、水分と酸素をたっぷりと補えたころ、
またたくさんのお客様と会いたくなり、
イベントを続けざまに2つ復活させた。
律rhyth-十音の間借り
雑司ヶ谷手waza市
SEO対策というのがまだ未熟で↑過去の紹介文になっちゃってますが。
招客はどうよというところですが、明後日の「律」はGW前でなかなかご都合難しそうで、しかし十音はまどから欅をながめながら、古くて美しい生活道具に囲まれて、展示室showroomの2階でゆっくりしていますので。ご縁があればぜひ。
今は「経験を積んだ」自分の身体を誇りに思い、このわたしを五行はどのように使うつもりだろうというような楽しみな気持ちになっている。
ブログも、十音の営業部長として、走っていってもらわないとな、と反省し、出会った人とかあったこととかもう少し頻繁に軽く書くつもりです m(_ _)m