間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

tonenoteトオンノオト ただの手技刺激

地震か?と思ったけれど

なんてことはない、

自分の鼓動で椅子の上の自分の身体が揺れているのだった なんとなんとね。

2日続けての休日、実に半年ぶりです。

 

薬店で登録販売者研修を始めてから週休1日でやってみていて、それなりにリズムもでき、集中して生きている。しかし身体に未消化のデータのようなものが溜まってきていていて、ちょうどうるう年みたいな感じで1日ずらしたほうがよさそうなところでした。折しも同僚の業務を交代した日があったのでさらりと代わりに休む。

 

ここのところ何日間か考え続けているのは、十音は対人支援従事者だろうかということです。

対人支援者としてのふるまいをクライアントから求められていると感じる時はありますが、わたしは心理学を修めてはいないので、できれば職人としての手技に集中したいと思います。

 

でも、リラクゼーションの施術室において、それってそんなに分けられるものでしょうか?

 

人の下腿部の細胞にリズミカルに入る刺激に押し出されヒスタミンやアドレナリンみたいに、人のこころからじわじわと放出されたものが、空間に漂う時もあります。その時、わたしはクライアントも自分自身も、心理的に安全に守りながら致命傷を与えも得もせず切り抜けられているだろうかと。

 

わたしには幸運にも、ワークショップやファシリテーションということを、芸術団体のラーニングプログラムの運営から考えるという、OJT度合いの甚だしい学びの機会を与えられたキャリアがあって、しかしそんなわたしでも、1人の他者と向かい合う場で、「ただの刺激」という透明な透明な存在にはなることがなかなかできません。

 

そして私の学んだワークにはたぶんに「マネジメント」という視点が入っていて(その頃はアートマネジメントという言葉が絶賛大旋風でした)、そこが「ただの刺激」に余計な成分を加えているという印象です。

 

魔法使いのように手技や精油や生薬のことを扱い他者への作用を目にしたい(もっと行けば賞賛されたい)という欲望が、私の中にだってあります。それを自分のアートとして組み合わせ、作品としての精度を高めていきたいと思うから、どうしても「作用」を勉強することになるわけなので、今の段階では仕方のないことだと思っています。精度を上げた結果、透明な「ただの手技」になるというステージが待っていたらそれは素敵なことだけれど。

 

ただ、人のこころを扱うというのはまた別の話で、「セラピー」を学ぶのが好きな人たちや教える人たちに、ときどき「こころに作用したい、作用する人に会いたい」という強い動機を感じることがあります。

 

そして、恐ろしいことに、誰かのこころにうっかり作用してしまったらしいときに、瞬間嬉しいと思い、どや顔をしている自分を否定できません。

 

人のこころに触れることの豊かさと、危険と、注意点と、対処。

そういうことを専門家から学ぶ場がリラクゼーション従事者にはなかなかないと感じています。信用できそうなワークショップや講座やトークや勉強会は、心理職や資格者を対象としていることが多く、わたしはとてもグレイな立場だと。

 

そういうことを、「民間」の手技療法者は独学でなく、どこで他者と学んだらよいでしょうか。

「対人」してしまっているとしたらプロとして相対したい。相手も自分も無事でいたいです。