Beata, Beatus, Beatum (レビューいただきました)
あらためまして、先日はありがとうございました。絢子さんの文章を時折拝読して、どんな施術をなさるのか興味津々でした。
温かくて、ふかふかの干したてのおふとんみたいな手で包まれた時に、「これはなんだろう」と思いました。この間、「なんだろう」を反芻しているうちにだんだん言葉になってきました。
最初に思ったのは、「これは痛いの痛いのとんでけ、だ」です。そして、ということは、「おまじない」?「呪」(のろいではありませんよ)?いやいやこれは「祈り」だ、と言う結論に至りました。「セラピューティック・リフレクソロジー」という手技を超えて、「神のご加護がありますように」と祝福されたのでした。
リフレクソロジーと言うと、反射区に症状が出ている時そこがかなり痛く感じるので、痛気持ちいい寄りの施術というイメージが強かったのですが、痛みが印象に残るのとは真逆の施術でした。
自分は、全身のマッサージでも普通にもまれると負けちゃうくらい虚弱なので、施術にモミの強さは求めておらず、故に「何をもってしてこの感じ(圧、速度、テンポ)なんだろう」というところに関心があり、絢子さんの施術には「ぶっちゃけ”そこ”じゃねんだよ(それは通過点であって届けたいものはその先にある)」という心意気をひしと感じました。
きっとセラピストと呼ばれる人々はみな「技術の先の届けたいもの」のために日夜奮闘している。けれど、絢子さんのようにそこに意識を向けている人(「そこじゃねんだよと私は思っているのだ感」を被施術者に感じさせられる人)は稀なのではないかと思いました。これは技術があってこそなのは、言うまでもないことで。でもなかなか堂々とその心持ちでやる人はいないような。
今ふと、頂いたお店の葉書に「ほどよく調律される、からだ、こころ、魂」とあるのをみて、合点がいきました。「魂」にフォーカスしているから、こういう施術になるのか、と。「からだ、こころ」と前置きはしているけれども、視線の先はまっすぐ「魂」をみつめている。なるほど、そういうことだったのか(のか?)。以上、突然の個人的感想でした。今度は施術室にお伺いできればと思います。では。
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そういうことだったのだと思います
ありがとうございます
頻繁に言うことではないのですが
施術で足をぬぐい、触れて、精油を塗っていると
わたしはその人の永い永い埋葬準備をしているという気持ちになり
いつもほんの少しかなしいんでした へんですね。
しかしオイルを拭き、
その人が椅子を降りていつもの靴を履くと
墓どころか
始まりましたぁー!では、こっちに歩くんで!
みたいな、
その人の祝福された道の起点が現れるので
なんだなんだよかったねえと思うわけです
日課セッションでのお見送り
祝福された道にがじゅまるが根っこよりエールをお送りしますので