間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

2021 啓蟄 蟄虫啓戸

3月5日(金)

 

植物がぐんぐん背を伸ばすのにちょっとついて行けていません。
気温が「うすら寒い」のと、最近ちょっと炭水化物を食べすぎているかなあ。
刺激の使い手としては、胃に入れるものを少し減らして、ちょっと渇望するぐらいにしてみようかなと思います。
自分も植物と同じくぐんぐん伸びていたいのですけれど、4月以降のこと(というよりも3月後半のことからか)が決まらず中途半端にわくわくしているというのがどうも。
 

そんな時は、周りのことなど気にせずに、自分のペースで、夢中になって読んだり覚えたりしていればいいんですよね。

 

3月の予定をホームページだけでなく、フェイスブックにも転記しました。


     ⤴⤴⤴⤴
以下の時間帯を番号でお知らせしています。ご希望の2時間をお取りください。
   ⤵⤵⤵ 
① 朝  6:00-9:00
② 昼  9:00-12:00
③ 午後 15:00-18:00
④ 夕べ 18:00-22:00

 
【セッション料金 ※2020年8月以降のご新規の方用】

 
1回 8,000円 学割あり
3回(2か月有効)22,000円
◆お問合せはメッセージまたは、HPからメールをどうぞ。

 

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4月からは、週1,2日開室できるかできないかに。
登録販売者(管理者)の資格を取るための2年間、限定ですけれど…

そうなると、旧料金システムのお客様たちの、3回券(1か月限定)のご予約にはご迷惑をおかけするかもしれませんね。1か月分まとめて日程を押さえて頂くことになると思います。でも、まだ面接の日程も決まっておりませんので、あくまで予定です。

 


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3月7日(日)

 

THE MUSICPLANT の野崎さんのシェアで出会った記事。

最近いろいろなものが重たくて、げっそりしてきたところだったので、久々に笑い散らかしてすごくよかった。

笑いってほんとうに必要。全然笑えない世の中。

 

joshi-spa.jp

この著者「サムソンさん」は野崎さんのつぶやきなどなどでよく見ていたけれど、知らなかった。
「ゲイから」視点の文章、好きです。

知性ってこういうことなのかなといつも思う。

根底に静かに沈んでいる、哀しみと、
それを筆の力で笑いに昇華しちゃう生命力が好きです。

 

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1年前の今日は、FBで発狂してたようです。今はこの手のことに慣れてしまったけれど。とにかく、生活スタイルを強制されることが嫌だったのでしょうね。

過去の自分と向かい合うように、文章を転記しておこうと思います。コピペができるってすごい楽ですね…

 

自分の職業を自ら不要不急だと言い続けるのを頼むからやめてくださらぬか。周りの全員からそう言われても仕事させてくれとわめいて討ち死にするならまだしも。

 

 人が集まってしまうのが問題だから…高齢者が多いから…もわたしには言い訳にしかきこえません。ウィルスなんて騒がれていなくても普段から人をはるばる集わせて成り立っていた仕事だということを知らなかったんでしょうか。それとも、今更思い出したんでしょうか。

 

安易に「全員」に要請する風潮にうんざりしています。全員に請けたまわらせるならそれなりの覚悟がいるでしょう。人に不要不急だと言われたからではなくて、自分で不要不急だと判断したわけですから、「コロナのせい」という言葉でくくらずオトシマエつけないと。「全員で」

 

いつも、こうやってがっかりするたびに、なぜ、主催と出演者はその「漠然」に言葉をあたえて突き詰めてくれないのか、と思うのです。

 

全員マスクつけろとか、全校休みとか、変なタイミングで言うので、みんな動揺して、すべて0%か100%かみたいになってきてます。

 

東日本大震災のとき、わたしも自分の担当イベントを延期にしました。その時の理由は、当時漠然としていた放射能の不安や、悲しみからの自粛ではなく、「公会堂」付近の家の計画停電でした。
公会堂を稼働させるのに、たくさんの住宅分の電力を使ってしまうので、今は開けることができない、という公会堂の判断が、こんな時こそ音楽をという主張よりも「付き詰まって」いました。
公会堂は地域の住民が集う場ですので、音楽家も会場も、計画停電をがまんしている人側につこうという行動だったと思います。
お金も機会も失いましたが、
半年後のイベントでは、野外で遊べなかった家族が公会堂の階段でお弁当を広げ(おいおい)、走り回り(走っちゃいけません)、発散できたと感想がありました。
なぜこのイベントが必要かを言えるようになりました。

 

わたしが言いたいのは、
「責任」を明確にすると、そのリスクも恩恵も、全員で分けることができるのに、ということです。
中止や延期を責めているのではありません。
また決行をそそのかしているわけでもありません。
どちらも理由がなんだかな、と思う。
その漠然とした不安にかたち=言葉を与えてモノ言えるようにするのも、この機を与えられたわたしたちの一つのアートなんではということです。
もちろん、手技療法にも漠然とした責任と、漠然とした不安があります。そもそも自分はクリーンなのかという大前提に加え、クライアントが感染して十音として仕事ができなくなっても、今施術がしたいかというのを天秤にかけまして、クライアント一人ひとりの顔を思い浮かべ、今は仕事させてもらおうという方向に賭けているにすぎません。
小さな商いとして不安になったとき、大御所の声明文を根拠の出典として頼りにします。
音楽界からは残念ながら出ませんけれど、演劇から出ていますのでそれを多いに言い訳にします。
わたしは論文やレポートを書くことができないタイプで、
今回の「人の判断」に対する問題意識がずれていると感じられる方も多いと思いますが、
わたしは個人で感じる漠然とした違和感には、何かの本質があるんじゃないかと、
それを具体的に知りたい見てみたいと思い、
ぴったりした言葉がないかと探しているにすぎません。
人のこころが早く落ち着いて、そんなに不安にならずにしごとができるようになったらいいですね。

 

そしてやっぱり、尊敬する音楽関係の方たち自ら、不安を語る時に音楽は不要不急と言ってほしくない。

 

例えば、この状況で自分たちを要で急だと主張してみたらどうなるんだろう…と思ったので、主張してみました。
主催と会場と出演者と観客全員で責任して音楽しよう、なんてのはウィルスを前には甘いというわけです。…ってまだ全然納得してないや。あーあ。