勉めて強く。
全体やつながりといったことへの感想を言葉で言い表わそうとするときは、そのものずばりより詩に託される方が、感想の変質や劣化を防ぐと考えるので
施術者としてのわたしの持ち味は刺激のエッジの曖昧さと、その曖昧さをクライアントに曖昧に差し出す間
だと思います。
だから同じ部屋にいないと難しい。
曖昧で宣伝できん
曖昧であることにも質があって、
本当にわけのわからないことをふわふわと言っているのと、
曖昧を排した探求心がベースにあるところから溢れてしまうから立ち込めているか、というのはすぐにバレることなのだと思う。
*
すみません、国家試験対策というのは曖昧を排したことなので、
逃避で曖昧さに思いを馳せました…
勉強の仕方は直球でいきたいタイプで、
問題作成のための手引きと自分との間をひたすら詰める作業をしているのですが、
その手引きさんの、「文章の並び」がわたしに合わないんだわこれが。
(そして、あんまり整っていないですよね。編集の目がないというか。競争相手がいないからかしら)
世の中の優れた参考書の数々は、これを表にしたり、系統図にしたり、ハイライトをあててくれたりしている訳です。
わたしは知識の吸収そのもの以上に、吸収の仕方を発見することに喜びを見出す「ものがたり好き」なので、勉強に関しては全体を何度も何度も触る。
臓器の位置みたいに医薬品の位置がわかってくると、知識はすぐに引き出せるようになってきます。普段のアルバイトにも役に立ちますね。
それが、今に独自な五行観と結びついて世界を作ってくれるのが、十音のべんきょうなのかなと思います。
こういう強くなり方は、子どものころは時間がなかったので要領が悪いと言われ、できませんでしたが、今は超、時間持ちとなりました。
好きなだけ強くなれるなんて、いいですね。