間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

Turandooooot !×3

帝劇の初期の「エリザベート」でハプスブルク家の大広間の階段を液体のように、流れてきた暗い天使たちを覚えている方には懐かしい感覚だったのではと思う、大島早紀子さん演出の「トゥーランドット

https://www.kanagawa-kenminhall.com/oita-yamagata-turandot/

 
柱から見下ろす群衆とか「気配」がずっとプロセニアムアーチにあるところに、フィレンツェのラ・スペーコラで見た疫病にかかった神々の広場のことを思い出します。
 
今までこのオペラに感じていたひずみや違和感が、H.アール・カオスの身体が入ることで陰陽スムーズに行き来して、プッチーニの音楽のスペクタル感も気恥ずかしくなく、しっかり味わえました。
 
このオペラ、「絶世の」という存在をプッチーニが音楽で表そうとしたのはわかるんだけれど、舞台の上にいる人がその輝かしさや厚みに耐え切れていない、といつも思ってきました。美女と神の役にはキビシイのです、わたくし。それは歌う身体だけしていては纏えないオーラで、作曲家もきっと歌手の存在を超えた、おとぎの国を夢見ながらオーケストレーションしたのじゃないかなと思う。
 
そこに圧倒的な身体が協力して、空間の密度を高くしていました。
とても立体的でしたし、
反対に、人間てこんなにたくさんを内包しながらよく一つにまとまっているなと感心します。
舞台で時間空間に分けられることで初めて見える複雑さがあって。
 
そしてチャン・イーモウ映画かってぐらい群衆が空気を作るオペラなのですが、人間なだけではないものをちゃんと醸し出していて、見事だった!
ああいうふうに、半身を窓から乗り出して広場を見下ろしている(監視しているというか、ユーモラスな)目がありますよね、ヨーロッパって。(大島早紀子さんの演出ノートがまたさすが社会を串刺しにしていて、愛があってよかった)

 

そして、死刑に興味津々の人たちや、妙に人気を集めている首切り役人(プー・ティン・パオ)や、死神のダンスに現れているように、死が一大エンタメだった時代のある宮廷前庭の一晩、という感じ。

 

姫が長い怨念を引きずっている割には、一晩完結、祝祭型のオペラなのです。
高円寺でやっていた「旅とあいつとお姫様」を思い出します。

 

今まで音楽の厚さに押しつぶされ気味で、すごい悲劇だと思っていたけれど、
実際は泉鏡花の魑魅魍魎ものみたいなお祭りの雰囲気がある作品だということに気が付きました。リューの葬送行進曲が本当に悲しいので、今まで、全部それに引きずられてすごい悲劇だと思っていた。プッチーニの泣き節はキケンだ。

  

そういえばあらすじが雑(!)なのはおとぎ話のあるあるですし、
役に一貫性を持たせようなんてムズカシイことを考えるより
細部が集まって描き出す一大絵巻であることがこの作品の魅力なんですね。

 

タイトルロールにはすごく力技な音が与えられていて、若い頃はヒステリックでぶつ切りに聞こえ、あまり好きでなかったのですが、オーケストラ知った今は違う聞き方をしました。プッチーニトゥーランドットのラインをヴァイオリンコンチェルトのソリストみたいに書いていると思う。音域もオーケストラとの掛け合いも。

思えばリューのイメージも二胡ですし、弦っぽいオペラなんだ、唐草模様なんだ、と聴くととても味わえました。

ということは経線(たて)を合わせるのはすごく難しそう。舞台の奥行もあって指揮者はほんとうに苦労されたと思う。ピットに入ったオケの音は、舞台上に遅れて届くので、音を聴いて歌うと客席にはずれが生じてしまうのです。
だから視覚が全てで、指揮棒(手)が経線を握られるんですけれど、群衆を扱う作品だしその配置が複雑だったので…

  

カーテンコールで指揮者と演出家が讃えあって、そこだけソーシャル・ディスタンスより敬意を優先していて、列柱の聖人の彫像たち(H・アール・カオスのダンサーさんたちですが)も祝福されていてほっこりしました。お疲れさまです…

 

f:id:ReflexologyTone:20201019131725j:plain

雰囲気が大事なおとぎ話や神話系の登場人物を、演じる身体を見ると、
わたしはいつもバレエの「ジゼル」を思い出します。
前半人間、後半幽霊の自分を踊り分ける1人のダンサーが、何を変えているかということなんですけれど。。。

 

観る者が夢を見られる身体て、身体から人間らしさがちょっと削がれているなと思う。
そこに必要なのはちょっとした「型」かもしれない。

 
美しくて残酷なお姫様、声も容姿もそのもので素晴らしいのですが、指を開いた手のひらが印象的で、それは彼女にとっては「拒否」の動きのつもりなのだろう、しかしこちらから見ると恐れるな、という「許容」のメッセージになってしまうなと感じたんですね。

  

養老孟司さんが、死体のうちで一番怖いのは眼球と手のひららしい、と著書に書かれていた。つまり人間の生や親近感て手のひらに出やすいんでしょうね。わたしは職業柄、足のしわもけっこう語ると感じていますが。

 

そこで思うのは、印を結ぶとか印相(忍者がドロンとするときに指を組んでいる、アレですね、簡単すぎに言えば)というのは人間が人間界とちょっと距離を置くときのポーズが型になったもので、複雑な形に組めば組むほど人間界から遠ざかるものだったのだろうと思う。

 

幽霊のジゼルの足がロマンティックチュチュであまり見えないかわりに、
目を伏せて腕の浮遊感を増し閉じた上半身の動きをするように、
指と手のひらを造形物のように扱うことで雰囲気はずいぶんかわるのだろうな。

 

そんなことを、絶世のクールビューティーなんだけれどちょっとお転婆な姫を見ながら思っていました。
もしかしてそのギャップが狙いか?ってそれはないね、音楽がああだもの。
あれだけ名前を絶叫されてから登場するって作り甲斐があるというか…大概ツーンとそっぽを向いてご登場の姫ですが、今回、扉が開いたときに「あ、ちょっと肩凝ったワ」みたいに頭をかしげてたんですね、ツボでした~。(京劇や文楽っぽいタメのある首の動きもきれいでした)
このオペラのお姫さまは高いところから降りて来てからが勝負なんですね、猫ではないですが、上にいるだけで優位なもので。

 
…その点、このオペラにおける皇帝陛下は本当に、いつも、なんで、この扱いなのかとプッチーニに聞きたい。

 

(すごく周りに盛り上げられてばばーん、と登場するんですけれど、すごく高くて奥から楽器の共演なしに歌うので否が応でも耳をそばだてられるにも関わらず、棺桶に半分足をつっこんだような声を出さねばならない、本当にかわいそう)

 

神奈川県民ホール、東京バレエの「M」もあるみたい。
すごいなー。踏ん張っているな。

f:id:ReflexologyTone:20201019131614j:plain

 

 

映画も舞台も、細部が好きなおたくタイプの鑑賞をする方なのですが、
今回それがことさら強調されてしまったのは、
とても久しぶりの大型の舞台ライブだったということと、
自身の主に聴覚がちょっとバラバラ事件(基音と倍音が平行して聴こえ、重低音の耳鳴りがやまない)のために、
そこにある「気配」に敏感になっているからではないかと思います。

 

突発性難聴のようなものなのでしょうが私の場合病院に行っても薬は出ません。音楽をやっている人は敏感よね、と言われて終わってしまう程度なのですが、左右で音の高さが違って聴こえるので始終水の中にいるような、不思議な世界の中で、バランスがいい時には感じ取らないものを感じ取りながら暮らしています。

 

自分自身ではこの状態を楽しんでさえいて、そのおかげで得られる情報を使いながら世の中の音を聴いている。
例えばオーケストラを聴くとティンパニの音域だけ半音低く聞こえるんですけれど(!)、そのおかげで上記「経線」のことを思ったりということ。

 

この低音は、わたしに何を語り掛けているんだろう。(いや単なる耳鳴りだ~)

 

トゥーランドットはある意味「勝ち負け」のオペラで、セリフにもいっぱい勝つだの負けただの出てきますし、高音も勝負!っていう感じ。「誰も寝てはならぬ」も勝利の予感を一人かみしめる歌です。

 

でも十音の今の通奏低音はもう物理的に果てしなく低いのです。勝負なんてどこ吹く風という感じです。笑

 

f:id:ReflexologyTone:20201019132019j:plain

また横浜港のまわりもゆっくり散歩したい。