間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

tonenoteトオンノオト 本当に休まるということ

そよそよと風が吹いて、不思議な声を出しながら飛ぶ鳥が横切り、スズメのヒナが親鳥にぴいぴいとねだっており、工事の音かと思ったのは遠くからくる車の音で、坂を登って消えていった。

運動場で騒ぐ声がわずかに聞こえ、同じアパートのサッシをガラガラと閉める音

 

ドローンのように、報道用であろうヘリの唸り声がずーっと響いている。

 

大きな雲がきれいな空をゆっくり動いていく。

 

休んでもいいんだよと、いくらアタマが権利や理屈から「許可」しても、全く休めないもの。それは疲れた体にとって休める日ではなくて、働いてない日ということでしかありませんでした。だから自己嫌悪まで生まれてきてこんなことなら休日なんていらないのではと思ってしまう。

 

でも、神経が、休まる状態というのを知って体中に労りのメッセージを出してくれると、休みは安心したものになる。いろいろが自分に都合良くなり、そこに置いてある箒と床のチリさえ「今日は休みだよ」とリラックスしているようで、ではジャマせずにワタクシも休みを…とますますとろーんとする。休んだなあと思って体をスキャンすると、凝りが取れてどこにも痛みがなく、息ができ、心地よいダルさがある。

 

からだがからだに許す本当の休息を随分の間とっていなかったということに思い至る。今日はソマティック・エクスペリエンスのセッションでした。

 

からだに、期待できるということは希望です。前進をしなくちゃ!と「こころ」で頑張っていてもどうにもならなかったことが、からだがどう感じているかフォーカスすることによって「なんか変わっている」。そして、その感じているあの感覚、この感覚にはもうすでに、どの神経がどうしているからそれが起こるということが生理学的に説明がついていて…それ、エンドルフィンが…とか和葉さんが仰るたびに、自分の中のエンドルフィンが、そーだよ知らなかったろーと持ち主に「発見」された喜びを表明するという時間。

 

わたしは20代の頃、オペラの舞台に立ちたくて呼吸に関する筋肉を鍛えたり、息を長く吐き続ける身体にする努力をしていました。

当時はあまり主流ではなかった解剖学的な呼吸の機序に興味があって、肺が真空に近づいても横隔膜が一気に上へ行ってしまうことがないよう、真空に耐えながら横隔膜を引き下げておける胴体を作るため、肋骨は挙上したままに、腰筋も骨盤も広げるように使い、キープするトレーニングをしました。

そんな動き、日常生活では必要ないものです。それが「意識」できるようにそれこそ普段から何をしていても「念を送る」ような日々でもありました。わたしは呼吸に取り憑かれていたというか、呼吸に支配され、それなのにいつも酸欠でした。

 

神経の行き届いた、というフレーズを、気配り怠りないみたいに使うのは日本人のいいとこでもあり誤解を生むところでもあると思います。気をそこに送りつづければ神経細胞が肋間筋や大腰筋の端まで張り巡らされるのだと本気で思っていました。結果、声楽をやっている人には違和感のない言葉かもしれませんが、「背中に息を入れる」とか、寸胴のようにからだを広げておくことができるようにはなりました。今でもその筋肉感覚は消えずにあって、さまざまな横隔膜の引き下げ方、肺の広げ方ができます。ある人が耳が動かせたり、リフレクソロジストの趾が器用だったり、役者が片眉だけあげられたりというのと多分一緒。

 

だけど、呼吸に関する筋肉を極端に意識下に置いたことで、わたしは息をするのが下手になり、生きているのが疲れることになり、以来、ずっと疲れている、と思います。気虚血虚で脱水状態で、少量の出来の良い筋肉だけで何もかもこなすという感じ。脳みそまで筋肉ってよく言ったものです。

 

このブログのタイトルでもありますが 

間 を定量的に論ずるというところまで行って未完に終わっている私と間との付き合い。または動悸が激しくなって息が吐けなくなり、もうだめだと降りてしまった歌い手への道。

そうやって生焼けのまま置いてきているたくさんのコトが、わたしの神経内でブスブス言っていて、まるで過重な電気抵抗みたいに力を奪っている、パフォーマンス低下状態というイメージが今はあります。

 

ではお焚き上げ作業のためにはまた修士に行くのか、歌をやり直すのかというとそういうことではないのが、からだの素晴らしいところ。その気持ちを思い出すと起こるからだの感覚を眺め直す。まるでタイムマシンみたい。からだはあらゆる間マを旅する。そんなに有能だったとは。

 

今日はこんな日ですが、「休むとは」「回復するとは」に関して私の筋肉アタマが確実なヒントを頂いたようです。

疲れたからだは、あたまがそうやって言葉を得てくれることを待っていた気がします。

よくぞ今まで保っていてくれたと思うし、自分の中のエンドルフィンやアドレナリンや、セロトニンオキシトシンや、まあ神経伝達物質さんたちに、いやあ長いこと気づいてやれなくて悪かった、あそこであんなに主張してくれていたのにと声をかけたい。

 

またここで神経伝達物質まで極端な意識下に置くとまずそうなので、そこは「動作」「所作」を忘れずに、エクササイズを学ぶのが良かろうということになりました。

 

またブログで、その旅の様子を書いていこうと思います。誰かの旅と交差することもあるかも。

 

楽しみですね。

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