間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

サシのルールと、劇薬悲しみのこと。

今日は、悲しみに備える、ということができるのかどうかと考えています。今に書き始めると思います。
 
十音は、「自分からは閉じない、しかし積極的な集客をしない」というスタンスをとっており、
昨深夜はひとり、まるで忍ぶような所作で施術を受けにきてくださった方がおられ、すっかり変わってしまった人とのやりとりについて小声で話しました。ここはゲットーかい。

 

さて、ここまで読んで、ぎょぎょぎょっと、
これは説教しなくちゃ!もしくは、そっと距離を置くぞ!と思われた方もいるかもしれません。

 
クライアントの先には感染させるご家族や仕事上の付き合いはない(今は控えておられた)のですが、十音は今も週4日の早朝アルバイトをしに杉並区まで徒歩と電車で出かけている。
 
実は出かける前が一番怖く、
一歩外に出たりクライアントと実際向かい合うと、感染させる恐怖というのはすーっと消えて、ただ仕事が、品出しが、施術ができてうれしいという気持ちしかなくなるのでした。
きっと…接待を伴う夜の酒場、も現場の空気はそうなんじゃ。
これが、見えないウィルスさんとの対峙の、特異なところ。

 

あとで、「取返しがつかない」
 
人命を危険にさらしている。
出歩いている時ではない!
今は我慢の時。
おこもりしてます!
Stay Home.
 
監視カメラのように配置される正しい倫理のことばに小さく小さくなり、
SNSをスクロールできなくなっていく。
 


実は、職業柄、年代柄、専門柄、ナウシカ的なちょっと不良な博愛ムードが多勢だった平常時の人人が、さらりとTV版のクシャナになって「焼き払え!」みたいなことを言いだすのでびっくりしている。

 
(何度も書きますが、ヒトだって新型コロナウィルスにとっては未知の相手だった。ヒトがおとなしくしていれば、彼らだって静かだった。そして、ヒトを殺すことは、彼らにとって自殺を意味するため、今は小突きあいをしながら付き合い方を探っている時だ。失敗すると、ヒトが死に、ウィルスも死ぬ。成功すると、ヒトが生き、ウィルスも生きる。ヒトだけが生き、ウィルスだけが死ぬのが成功なのかどうか、わたしにはわからない、ちょっと生物として傲慢ではないか、なにか大いなるしっぺ返しがくるのではないかと恐れている)
  
今日のこれだけが本当に楽しみだった、と1000円と雑司が谷のおせんべいをくれたクライアントと、わたしの間でしか取り決めできないルール。解り得ない正誤。
この状況で人に触れるか触れないか、これはずーっと白黒つかないだろうと思う。

 

グレーな答えのなさを抱えたまま、サシの関係のルールにのみ忠実にしごとをしていくということになる。究極のオーダーメイドですね。

 

そういう時、実はつながりや連帯は刃にもなって、
部屋で向かい合う2人を斬りつけてもくる。

違和感は増すばかりだが、それってブレていない(ブレられない)証拠でもあると思うので、これはこれでの定点観測は続けようと思う。

 

添付するのは、前に「中動態のはなし」に興味を持った時、
読んだ東京のお医者さんのノートです。


ルールにしてもらえなくて苦しんでいるところが多いにあるが、ルールを求めすぎているとも感じており、ルールを受け取る側にも覚悟をね、というところに共感しました。

note.com

 

 

 

 

***

 

悲しみのはなし。悲しみに備えるということは出来るのだろうか、というはなし。

 

今のところ、この新型肺炎で死ぬ場合、
今わの際に面会できないらしいので、
わたしは夫が発症しても、触っていたいがために病院につれて行けないのではないかと思う。
そして、
自宅で死んだ夫の足をいつまでも揉み続け、
自分も発症して足元で死に、

発見された時に「ああ、あやさん、足を揉んだらりゅうさんが生き還るって、信じてたんだね~…」
と、誰かに呆れられる。

 

不謹慎かもしれませんが、
わたしが知っている悲しみって、真剣にそういう感じのこと。
リフレクソロジストになった理由はたくさんある。(わかんねーって?)
 
信じていたものが、ちょっと力及ばずでしたね…
もうすこしあのままでいたかったね。
もうもとには戻れないと宣言される。

あやさんが先に死ぬという話はないのか?とか、
まあいろいろと突っ込みどころはあるんだけれど、
人はものがたらないと生きていけない。
悲しみにファンタジーの形を与えて処方するのは、
真剣勝負だがうまくいくと効用がある。

 
このものがたり(光景)が不意に浮かんだ時わたしは「トイレクイックル」を棚に納めながらひとりで涙をぽろぽろと流してしまい、
直後に元気になって、
嗚呼わかっちゃいるがサシのルールで行くしかない、とハラを括ったのでした。
 

わたしの悲しみは、わたしだけの悲しみ。怒りもそう。
喜楽よりプライヴェートなところにしまわれている。
そして「悲しみ」は個別対応の劇薬でもある。

 

肺は五行の金に属し、同じ性質の中に悲しみもある。
内側に向かう凝縮のエネルギーであり、うまく働けば職人的な集中力やアートになるし、下手に働くと凍り付きや便秘や固執を引き起こす。
肺に関わる感染症で混乱する今、人人が泣きながらもとに戻ることができないかとカケラを拾い集めている、収集で疲れた足に刺激を差し込み、隙間をつくることがわたしのしごとですが、期せずして「戻れません」と宣言する役目を担うこともあって、(いやー戻れますよ、頑張りましょう!とか言ったらセッション丸ごとウソになる気がする)そんな時はその人が悲しみ劇薬を調合するのを少し手伝えたらいいと思う。

 

泣くためのワクチン「悲しみ」。

 

わたしももっと妄想して大泣きしなくては。

 

(後記:晴れた夕方の街には人が出歩き、いつもより多いぐらいだったとか。仕事する権利を主張したわたしは、遊ぶ権利を主張する人に文句を言えないような気がします、しかし「私とクライアント以外のみんなで感染を押さえてください」的な考え方があったのも否めない。)