間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

不調、病、死。

東洋医学は死とあまり付き合わないのだろうか。

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そんなこと考えるのは、わたしがリフレクソロジストとして不調を物語る程度の経絡理論と陰陽五行説の視点しか持たないからだろう。

中医師は、漢方薬剤師は、鍼灸師は、病と死とどんな間を保つのだろう。

けれど、今回のような世界になると、
東洋医学というのは、人がまだもつ自己治癒力にテコ入れする叡智であって、死にゆく人を生き返らせようという技術に興味がありそうには見えない。

平常時にあった、養生や美学を説く平和な声がきこえない。
みな黙って成り行きを観察しておられるのだろうか。


例えば肺炎が鍼灸で治るということは、あり得るのだろうか、
即効性としてどうなのだろう。
肺の反射区や経絡、フォーミュラといったものはあるけれど、
恐らくこんな現場では使われてなさそう。
 
わたしの足元がぐらつくのは、
いざという時に役に立たないことをやっているのでは、という不安にもよるのでしょう。

今回の新型の感染症の世界には、
殺すか、殺されるかの現場と、
その生死を自分事としてとらえられず現実逃避気味の市中、
その間をつなごうと悩むやりきれない間質、

そんな層を感じる。
わたしは3番目のやりきれない間質役として、
ただようこころがまた戻ってきて地に足をつけて歩けるようになるために、
いわば「AC」(キリストじゃない、コロナのほう)への養生をしている。

人のこころが死なないために、モノガタリが必要だ。

・・・
ついでに今、詩や歌を作ることができる人は、どんどん歌を発表してほしいと思う。
ドラッグストアで流れる幼いポピュラーミュージックが、
過去のものの繰り返しであり、今を映しておらず、
まったく詩になっておらず、こころの拠り所がなく、
うんざりしているので。

・・・

今日も足をネタに、即効性のないモノガタリをつくるわたしは、
そして、西洋医学のあきらめなさ、人を生かそうとなされる努力に圧倒されている。

生きたいという人の欲というのは実感することがあるけれど、
生かしたいという人間の使命感というのか、欲望も凄い。
あまりこういうの感じたことがなかった。

***

木→火→土→金→水→… の順にエネルギーが移って性質を変えていくとしたら、
新型コロナ(太陽の大気の形)ウィルスの暴走によって、(火)
肌肉を主り、口に開竅する脾の働きが狂い、味覚障害が起き、(土)
鼻に開竅する肺の働きが狂い嗅覚異常が起き、腕が痛くなり、肺を病み(金)
世界が恐怖、呼吸困難、パニックに陥り、(水)
魂の消失(木)
そしてまたコロナさんの暴走へ…
というこのものがたり的には納得のリングに、
どう刺激で介入していけるのだろう。

すぐに思いつかなくてもよしとしようかな。
新型コロナウィルスさんがまだ自分で気が付いていない弱点は、
急ぎ過ぎてヒトと一緒に自滅してしまうことなのだから。

不調とこころ、魂を切り離さず、

なんて宣伝文に書くならば、
病に対してとるスタンスもしっかり定めなくてはいけないのに、
不調の延長ぐらいにしか思っていなかったんだわ。
病の延長上には死があるというのに、
死と対峙する準備がない。

本質的に手技療法者でいられるのか、
本当にホリスティックだったかということが問われる日々。
今どういう行動をとるか、とらないということも含めて、
見て下さっている方がいると信じるし、なにより自分が見ている。
ここで矛盾したら、崩壊だ。

 

現在、44組88本の足と、ワンとニャンの足一組ずつ(これは番外編)、
送っていただきました。

ayakoxyamazaki.wixsite.com