間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

informatio

養老先生が、『骸骨巡礼』の中で、

だから現代人はうっかりすると生きそびれる。 

 と書いている。

情報とはじつはすべて過去、情報化された瞬間に固定し、ひたすらそのままに留まる。

つまり情報化社会というのは、万物流転と正反対に固定されたものなので、情報ばかり追っていると生き「そびれる」と。

納骨堂の中で「全身で格闘する」ほうが、書物よりいろいろ知るのだと。御意。

 

日々無意識に、情報は身体感覚に結び付けて扱っている。
例えばわたしは今日、八本の足に「触れる」瞬間は
書物や講義によって得た情報(過去の知識)をいちいちあてはめるが、
その情報は今も手の平と指先の感覚に呼び起こすことができる。

 

逆に、8本の足の触感が、わたしの中で4名のお客様という
人間のかたちになる。


そういう風にして、他人の身体の状態についていろいろと感じ取る。

イタリア・ルネサンス巡礼も、
今年行くであろう欧州も、
例えば「鉄瓶」を買いに盛岡まで行く、なども、
みんな身体感覚で納得したいから。
もしくは、解らないということも身体感覚で感じたいからだと思います。

 

あの鉄瓶がアマゾンでびゅーん、と来たのと、
盛岡の零下を肌で感じながら、
温泉で湯気をご馳走のようにむさぼったりしながら手にとって、
十音のところに来るのでは、
その後の付き合いが違うのです。

f:id:ReflexologyTone:20200115185542j:plain



 

話は変わるのですが、
スマートフォンで情報収集をするのが上手な人を、
わたしは尊敬しますが、
それはその後「体験」するために有用な情報を集めている場合であって、
最後には「行って、身体で感じて、またそれを共有してくれる」からこそ。


その共有にあたっては身体的な刺激を刻んでくれる。

 

ただ自分が「真似」をするためだけに、
検索の名人にはなりたくないなあと思うのです。

 

例えばわたしは、ちらしやホームページといったものを他人にお願いして作ってもらうことが仕事上多かったのですが、
イメージをスマフォで収集して再現する方とは、
どうしても、納得のいく仕事ができませんでした。

 

そこには、
「手に取られて感じてもらう」とか、
「目から飛び込んで身体を向かわせる」ような、
パンチや重さが効いていないというか…
どうも薄っぺらで無機質な感じになるのと、
あと、スマフォって、画面が小さいせいでしょうか。
小さいものが大きく見えるためでしょうか。
実物化するとどうもスケールが小さいものに感じる。

そりゃ、実物の重さや文字の大きさ、幅は、
ピンチやクリックで拡大できないわけで…

 

当然のことなんですが、
画面ばかり見ているとそれがわからなくなってくるような感覚ありませんか。

 

ホールのロビーに行けば演奏会ちらしだけで多くの種類手に取ることができる。
プロフェッショナルがつくったものも、そんなに経験していない人がつくったものも。

 

それを一つ一つ体感できる。
それができるのに、その「ひと出かけ」をしない人になりたくない。

 

オーケストラの管楽器奏者が、立ち会った取材で言っていた。
「学生に、今からレッスンする『この曲は聴いたことがあるか?』と訊くと、みな『ユーチューブで聴きました』と言う。」
そして、生で「見る」ことの情報の質について、「僕たち管楽器奏者は、弦楽器の人たちの弓の動きから学ぶことが多い。」と言っていた。
だから生を体験しに「出かけなければ」ならないのだと。

 

PHSが使えなくなるので、
そして使っている第3世代iPadがとても重いため、
わたしもとうとうスマートフォンを手にすることになりそう。

 

昨日、十音のホームページを夫のスマートフォンで操作しながら、
その情報の「軽さ」にこれもある意味身体的なショックを受けた。

 

爪に支えられた指先がコツ、コツ、と「タップ」したり、
指紋を残しながら「スクロール」するとびゅんびゅんと文章が流れていく。
十音の情報は「コツ、コツ」と「指紋ベタっ」ていう身体感覚と紐づけられていく(笑)。

 

 

短時間により多くの「情報」を得ようとか、
自分に必要だと思われるものだけを得るなら、
こんなに要領のよいモノはないですけれど、

「玩具の域は出ないな~」 という感想。

 

なんだか一気に醒めてしまった。

 

・・・・。
玩具で美学の提示って、できますかね…

 

・・・・・。

すべての色を混ぜたらできる黒色みたいに、
平易な文章に出汁を効かせるしかないのだわ…


だって、解り難いこと書くとスクロールの速さについていけないんだもの。

 

スマートフォンの画面に収まり、スクロールの速さで理解できる程度の
「生」なんてない。
ちゃんと体験したい。
養老先生ではないが、「身体で格闘する」相手は食物みたいなもの。
しっかりと私の身体を構成する一部になってくれる。

考えてみたら、セラピューティック・リフレクソロジーの「ローテイティングサム」って、同じ親指でも、スクロールの軽さと正反対の質の動きなのです。

 

しつこくて、鋭くて、相手によって変わる。
 
つまり現代的ではないわけですが(笑)
シンプルなこの刺激をもって、世界を体験しに出かけます。
そして玩具のきれいで小さな画面になんか閉じこもらず、
生きそびれたりなんかしないように。

 

f:id:ReflexologyTone:20200115184459j:plain