身体とかホネとかパフォーマンスとかつらつらと。
ここ5年、お正月には男たちが殴り合うのを見に…(笑)
今年も1.5東京ドーム(新日本プロレス)に行きました。
十音とプロレス、意外かもしれませんが、「パフォーマンス」という点で、これ非常に興味深いのです。
試合運びとか、選手の華とか、「上から目線」←ドームの後ろほうの席だから で感じ取っていろいろ勝手に言うのが好きです。
地道に身体ができていて運動能力高い選手(パフォーマー)が、なんやかや言っても人の眼を惹きつけますね…そしてアジテーションの力がある人。
↑ みたいなことを、観覧席で飲んだくれながら言う。笑
やっと昨日一気読みした養老先生の「身体巡礼」にもあったけれど、
選手やパフォーマーも、「身体という自然」を直接に扱う職業だとすると、
歴史的にはわたしたち手技療法師と同じ職業の範疇、と思う。
占星術師や陰陽師も仲間ではないかしら。
「自然の力を利用する」職業。
これらの本、新潮社の「考える人」に連載されていたエッセイが文庫本化されたものなのですが、
とにかく言葉が響く。リフレクソロジストとしてのわたしに。
また、「医学とアートのはざま」とか言っているリベラルアーツ好きのわたしに。
2018年のイタリア旅でも強く強く感じてきた、
明るくないぞ、そんなに理性的でもないぞ、欧州。
とここでも言われている。
むしろ、言葉にならないということを扱いあぐねて、
ホネで室内を装飾してしまうとか、
心臓だけ別に埋葬してしまうとか、
墓の上に墓をつくってしまいその階層は12階建て分になるとか、
ぐっとくる感じに「残す」ことをやってのけてしまうヨーロッパのなまなましい姿が、
養老先生のホネや解剖をとおしたまなざしで洗われて、
これでもかーと提示される。
常々、
足に触れるたび、
(長ーい目でみた)この人の埋葬準備をしている、とわたしは感じる。
キリストの足に香油をたらし、髪でぬぐうように、
こころを込めて、身体をととのえながら。
足のリフレクソロジーは、
哀しいが生を受けたときから死にむかっている、
そしてたまたま、同じ時代に生きることができたから会えたクライアントに、
刺激を入れることで、「イマココ」を感じてもらうスキャン作業。
わたしのリフレクソロジーは、
ととのう喜びに満ちているんですけれど、ちょっと悲しい。
そして芸風が健やかに暗い。
のは、以上のような理由によると思う。
よく誤解されるのですが、
リフレクソロジーは、反射神経ではなくて、「投影」を指す。
(十音は「内省」の意味でも使うんですが、)
「世界は要するにより一つ下の階層の要素の組み合わせでできている」という「還元論」、つまりアルファベット世界、アナグラムで遊べる世界から生まれた思想と、アジアの五行思想の接点にセラピューティック・リフレクソロジーを置いてみる。
そうすると、わたしにはこの手技や体系が、
とにかくありとあらゆるモノコトを引きつける、
世界の「辻」みたいに思えて愉しい。
刺激って、物理的なものだけではないので…
書物は情報だが、納骨堂とは全身で格闘しなければならない。それが修行であり、修行のありがたさは、どこだとはっきりはいえないが、とにかく自分を変えてくれることである。
(「骸骨巡礼」より)
考える前と、考えたあとでは、自分は違う自分になっているし、
やる前と、やったあとも、違う自分になっている。
施術は本日720セッション目のご予約をいただきました。
まずは1000回を一区切りというのは、そこで終えてしまうわけではなくて、
まあ、「1000回90分やったぞ」と逃げも隠れもせずに、堂々と言いたい。
回数が身体にしみ込む何かが、あるに違いないではないですか。
言葉にならないけど。