もつれビトと、英語と、ギターとピアノ
あの、
本当は、こじらせ女と英語とギターって書こうとしたのですが、癪なのでやめました。
解す人のはずなのに解り難いリフレクソロジストのわたしは、
英語の文章が苦手です。
とにかく、英文を読むことと、思っている日本語を英語に言い直すことが、できません。
頭の中で、「言葉のひも」がこんがらがって、何から手をつけたらいいんだか混乱しています。
でも、同じ国の人とだけしかコミュニケーションできないなんて、すごく損をしている気になって、外の国のことがとても気になるので、エイゴを学ぼうと果敢に挑戦しています。
映画が好きだから英語字幕で見てみたり、映画の対訳ブックとか、Japan Beer Times を対訳と一緒に読んでいくのは好きだからだらだらやっていたり。
それはすぐ答えが出てくるから好きなのだということが分かっていますが、実はコレ全然力にならない。
「英語の筋肉」が鍛えられないんでしょうね。。。
先日、群馬の山奥へ温泉に出かけるバスの中、たまたま聴いた「ラジオ英会話」で突然耳が開きました!
これ、副題が「ハートでつかめ!英語の極意」なんですけれど、
ネイティブがその単語を使う時の細かいニュアンスをじわじわと叩き込むのと同時に、
英文の構造を丁寧に説明してくれているのと同時に、
容赦ない「筋トレ」を迫ってくる。
「とにかくこれ一組で覚えちゃいなさい、口をついて出てくるまで音読を繰り返さないとあなたはここから先、一歩も進めません。スタート地点にも立てません」ぐらい、軽いタッチで斬られるのでなんだかズタズタになりながら、1日の中に時間を見つけてテキストを読んだりストリーミングを聴いたりしてます。
十音をご存知の方にはお分かりかと思いますが、わたしは考えたり味わったりするのが好き、グレーを良しとするという性質があります。
しかしそれは語学学習には言い訳。
ぐるぐると同じところを回ってもつれさせるケがあるので定型の文章をブロックで叩き込むようなトレーニングが必要なのです。
黒白つけるっていいな~…(おい)
そして同時に、ある同じ日本語訳の単語でも、ネイティブにとってはどうニュアンスが違うのかを感覚で叩き込んでくれるのも良い。
extendとexpandとspread とか。
わたしは自分を感覚至上主義だと思います。
歌を学んでいたころ、隣の舞踊学科によく潜入していました。
舞踊の教授が「あの子はどういう子なんだね」と尋ねたところ、音楽の教授が答えたそう「センシティブなんだけど、感覚的なのよねえ…」
舞踊の教授が笑いながら私にそれを教えて下さった時、わたしは正直どういう意味か解っていなかったのですが、今は痛いほどわかる!
「こだわりが強くこじらせ系だが、その思考を実際の行動や解決に結びつけることができないということだ!!!」
(弁護すれば、歌は息の吐き方、身体の筋肉の使い方が重要なので、そのニュアンスを表現する言語とかOSが違うと、先生が何を言っているか全くくみ取ることができません。結果、自分の身体に置き換えることができず、発声はよくなりません。だから、同じ言語を使える人、同じようなシステムの師匠を見つけることはとても大事です。先生が仰っていたのは、「自分とはシステムが違うらしく、極意を伝えるのに苦労している」ということだったと思います)
繊細であることを言い訳に、容赦ない筋トレをさぼってはいけない、ということです。
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さて、タイトルにあるギターですが。
苦手なことばかりだなー。
どちらの理由も、英語と同じだと気が付きました。
長い弦があんなに並んでいて、そこに左手の押さえと右手の指がバラバラに動くなんて、そして、譜面を左から右に読まねばならないなんて。
わたしはギターとピアノに、英語と全くおなじ苦手意識を持っています。
こんがらがるのです。前へ進めない。
先日のパーセルのコンサートで、テオルボ奏者の滝井レオナルドさんが、スペイン語、日本語、英語、ドイツ語…となんだか5,6か国語できるというMCがありました。
撥弦楽器ができる方って、語学得意なのでは?と思うのですが、それって運動ができるということなんじゃ・・・
筋トレが苦ではなく、どんどん覚えて、運動信号に変換されて、身体が動いて、弾けたり言えたりするようになるという感じ。
ところで今、日本にジム文化が浸透してきているそうです。
確かに、雑司が谷にもエニタイム・フィットネスなどなどできているし…
日本人が筋トレ方向になってきたというのわかる気がする。
などと、もう上記ですでにもつれていますが、
感じろ、鍛えろ、そして覚えろ。というのは、学びの極意かも…
写真は、積乱雲の北上。
巨大な舟が港に入るところとか、ゴジラとか、百鬼夜行みたいでした。夕方ですけれど。