間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

一体、全体。

手waza市明けの4/17、また神保町の「温室」でやっているTerrain Vague へ行ってきました。

それにしても、月にすごいペースでこういう場を作っているんですね。すごいことです。

 

Vol.65は 稲葉俊郎さんによる「音楽と医療」

http://onshitsu.com/2017/04/05-151219.php

 

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楽器は自己チューニングから始まる。本来の状態にないと、本来の音色は響かない

音楽は受動的に聞くだけでなく、自分も演奏に参加し当事者となり主体的に関わる

音で場を整えることが、耳や皮膚を介して体を整え、健康や全体性の医療へつながる

未来の医療は「治す・治される」の関係性を超え、身体や心の全体的な調和、場の調和を目指す、より本質的な医療になる

音を入り口として、自然や宇宙の神秘を学び続けることが、養生法や医療につながる

 

以上、十音じゃなくて、稲葉俊郎さんの言葉。

楽器を人体に、音を刺激に、置き換えてみてください。

カンディンスキーの「全体」という絵に添えられていました。

ホリスティック!

 

 

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全てをつながっていると考えて興味の連鎖がつきない、

ダ・ヴィンチのような人たちにとって、

そのいっぱいになりそうな頭の中を表すのに

「言葉の組み合わせ」はとても重要です。

 

稲葉さんはおそらくすごい量の知識と、

知恵の宇宙に溶け込んだ人なのでしょう。

そして、それを表現していくぞ、と決めておられるのだろうと思います。

叶うことなのか分かりませんが、もっともっと少人数の語り場で、

語られるのをきいてみたいものです。

 

以下、この日の自分の中の触発について。

 

◆能の世界とも絡めて語られた、「外と内の交わる場が回復には必要」

 

リフレクソロジーのセッションでは、クライアントがよく

「眠ったような、眠らなかったような」と感想を仰るのですが、

 

ああ、あれは回復に必要だったのかな。

 

そういう場を作る役割もあるのかなということを思い、

そこで流す音に自分がこだわるのも、作用を期待するからです。

 

◆「触覚に関わるマイスナー小体は、触れられると細胞全体がグーッと歪んで受け止める」

 

触れるとは、そんなことをお互いがやっているということ。

けっこう大変なことですな。

 

◆「わたし達には聞かなければならない必要な情報など、そんなにない」

 

ご家族が高齢になり耳が聞こえなくなってきた、という参加者に対しての回答。

 

◆「聴覚は五感の中では押しかけ女房」

 

聴覚は、一番最後に発達してきたということ。

確かに地上に生きるようになってからですね、空気の振動を感じるようになったのは。

 

聴覚は、もともと平衡感覚(耳の中の細かい毛や耳石で感じるもの)で、

平衡感覚は、もともとわたしたちが水の中で生きていた時に潮流を感じ取るところから生まれたのだそうです。

そんなことを知らずに、

東洋医学的には、耳のトラブルは腎・膀胱経、すなわち「水」の乱れと見ます。

 

こうして外へ出かけて行けば、

刺激がすべてつながり、

セッションルームがまた場として密度の濃いものになります。

そういった想いや実践の中で、

クライアントとちょっとした新しい状態やことを生み出すセッションをしているんですね。

 

 

その前の日手waza市の最中13:00過ぎ、

わたしのルネサンス・ダンスの師匠小澤高志さんが、

肺がんで亡くなりました。61歳でした。

咳がひどい、とFBに書いておられたので、

「おぢぢ、現代社会と交換するのに疲れたかな」などと思っていたら、

蠢きだす季節に悪化して木の芽どきにいってしまいました。

病床にリフレクソロジーもできず。

望まれたかどうかはわかりませんが。

 

昨日最後のお花を右足裏あたりに置いてきました。

 

はじめてカトリックのミサを体験しました。

 

ステンドグラスに、人が人に触れている絵がたくさんあって思い出しました。

 

キリストがお弟子さんの足を洗ったり、

女性が香油でキリストの足をぬぐったり、

聖書のなかには足に触れる行為がいくつか出てくるし、

法王が一般人の足を洗う儀式をご覧になったことのある方もいるでしょう。

それに詳しくはどんな意味があるのかはまだ知りませんが、

セッションのはじめの足湯の時がわたしはとても「道」として好きです。

 

裸足は無防備で、勇気のいること。

クライアントがそこに自分自身をさらけ出して座っていてくれる気がします。

 

女性の目に映ったキリストの足はどんなだったかな、と思ったりします。

埋葬への不安を抱え、どんな彼が映っていたのだろうと。