tonenoteトオンノオト 人の、枠をはみ出したカケラの価値を名付けられるのも言葉。
2022 立春 雷乃発声
書き出しが思い当たらないぐらい、どかん、どかんと天からタライが攻撃してくるかのようで、いやあ参ったなアーという感じの1週間でした。ああ、書き出せた。
タライっていうより、雷だったのかも。そういう候だけに。
書けないと解けない性分なのですが、すらすらと行かない日もありますね。
ボディアセスメントをクライアントに返す際には気を遣います。十音としては、ドカンとそのまま返すことは避けたいことです。
というのは、フェイシャルケアのケースモデルとして1年間、研修を受ける方たちの被験者を務めたのですが、「ここにシミ」「ここにたるみ」「ここに乾燥」と指摘され、日焼けケアが足りない、ビタミンCが足りない、もっとケアを、酒は控えろ、と言われ続けるのはこたえる体験で、時々怒りさえこみ上げたものでした。書くとウケますが。
(あと、時間制限のきつい施術を本当に疲れている時に受けてはダメですね。手の焦りが身体に伝わるって身体にとってはよくなさそう)
顔だったからじゃないの?と思われるかもしれませんが、足にだって言われて気持ちのよくない指摘はあります。
十音としては、一緒にこれを楽にしていこうと言えるあいだがらになったとき、すぱっと切り出して一気に作品を仕上げたり、クライアントが身体に感じているだろう辛さを、足が代弁してくれていて、それを受け取ったよと伝えるために共有するかもしれません。
いずれにせよ、人にその人の特徴を伝えるというのは気を遣うことです。
ウィルスとの付き合いを優先させクライアントに触れることを控えた時期の、ほぐしをほぐす「うちの足の物語」から生まれた「物語」は、第3者にとってはただのシュールなファンタジーだったかもしれません。依頼者の足と顔のアセスメントは返さなかったし、ましてや作品上にも記していないので、読む人にはその物語に施術や快復とのどんな関係があるのか、分からないと思います。
こんな感じ。
一匹狼の金平糖がおりました。金平糖には色とりどりあるものですけれど、ほかの金平糖より固く結晶してよく跳ねるので、しょっちゅう瓶から零れるようです。砂糖の純度があがりすぎると、自身もちょっとひび割れたり、角が鋭くなって食べる人にイテっとか言われたりします。
金平糖は案外涙もろく、鍋で温かくしてもらうとついほろっとして、また新しく結晶して跳ねます。
紡ぎ手である十音にとっても、2年たった今読むと、ちょっとワケの分からない即興語りに見えるぐらいです。
スタンスとしては初めて通りすがる街で一発歌う吟遊詩人みたいなものだったかも。住人に気を遣えない旅人は相手にしてもらえませんから、かなり気を遣いました。
足の写真⇔ボディアセスメントと五行診断⇔セルフケア提案 という解りやすい構造にせず、なぜそこに物語をかませるかにはもちろん理由があります。
同じ手技、知識から企画を生み出すには、どこかに唯一無二であることの刻印を押したかった。十音は競争が嫌いだからです。
あと、アセスメントから導き出す疾患や予防は「解釈」の域も含んでいるので、本当はセカンドオピニオンがあるといいと思います。セラピストはそこを勘違いして自分を神にしてしまうことが多い。間違った神よりも、ある絵解き者みたいなほうがましなのではと思いました。
また、その解りにくさのところには無限の創造の可能性がありました。企画後2年たっても、その物語からはその方の可能性がまだまだ発見され続けているように思います。
←ここ大事だ。やってよかった。
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施術もアドバイスも究極のお節介で、使い手によって介入の質はカンフル剤にも鎮静剤にも、刃物にも銃弾にも強姦にもなり得ます。
黒白つけないグレーの広大、深淵、重量の前でうずくまったことのある方なら、あるボディアセスメントと医学的な「回答」を1本の線でしか結ばないことの恐ろしさ、ひいてはセラピストのおこがましさ、ドヤ顔にドン引きするのではないでしょうか。
開室して6年たちます。その間ずっと施術家であり続けるためにもがいた十音ですが、セラピューティック・リフレクソロジストになりたての頃に持っていた未熟さや思慮のなさを街中で拾ったとき、恥じるとともにこころが痛みます。がーんとタライ。
でもそこを指摘することはボディアセスメントと同じくとても気を遣うことですし、それこそグレーな領域なんでしょうね。喜ぶ人もいるのでしょう。
きっと十音の尊敬するセラピストの皆さんも、「技」を手に入れてドヤドヤする十音たちに思うところいっぱいだったんじゃないかと。
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話しはかわって。
4月からの登録販売者研修の契約が確定しそうです。
その過程にも「これがパートでチェーン店に雇われるってことだなあ」とため息をつくこともあったりしたのですが、同僚の心遣いもあってやっと安定しそうです。本当に感謝。
あと1年は登録販売者の研修が続くので、そこは言い訳なく、勉強できることはここでみんな勉強してしまおうと思っています。
そして、拠点を森近くの古民家に移したいという思いはやはり1度実現してみたほうが楽しそうなので、今年度は午前は登録販売者、午後は施術、週に2.5日は物件を探す旅を繰り返しつつ暮らしていきたいと思います。
開室日は基本的に
月、火、土、日 16:00‐21:00
水、木、金は週によって旅に出てしまうので、お問合せください。逆を言うと、木、金は朝セッションができる可能性もあります。
2022 春分 雀始巣
3月22日(火)
電力が足りない状態という。外は思いがけず雪。
湯たんぽに沸かした湯を入れて足のあいだに挟み、ひざ掛けをする。これはとても安心する保温方法。足が温まれば勇気が出ます。
電力不足で印象深いのはもちろん東日本大震災のあとのコンサート自粛と、そのあとの夏の冷房設定温度。
だから、電力不足になると思い出すのはやっぱり「大衆を相手に自分が無力だったこと」。
同じくウィルスとの付き合いや、戦争のニュースに触れても同じ感じのひんやりとした肌感覚と無力感と、挑むような気持ちの中にストンと戻ってしまうんですけれど、SNSが発達しているということが、この「歴代すうすう感」に変化を与えている。
しかし逆に、SNSがこんなに発達しているにも関わらず、それを利用して意見を表明することが身の危険につながる世界などがまだあるということには、前よりも戸惑ってしまう。
対立についても間についても、原因を解りたいという解剖癖はある。でも今は闇雲にツイッターを追うより自分が何を感じているかをまずちゃんと解っていることも必要かと思います。知らないことっていっぱいあっていい。無知が自分を守るために大事なこともある。
そしてこの突き上げるエネルギーを調整するには、自分の中の専門性を高める時間をもつことに限る。これも、登録販売者として「勉強」するということを再び課したところ得た発見。気持ちがすうすうとして無力感に苛まれそうになった時には、薬効成分に立ち返ったり、施術する自分の身体をメンテナンスに出したり、息を深くしてエネルギーを自分の中心に結晶させる。
これが、暴れる木を剪定するということ。
歳を重ねているのと記録をこうして残しているので、同じ傷つき方は回避することができている。傷つかなくてもよい世界というのはあるはず。あきらめずにそこに行きたいと思っていることは大事だと思う。一歩も踏み出せなくても、必ずそこにたどり着き、後から来る人に旗を振って知らせるのだ。
2年前は内田洋子さんの『デカメロン2020』をネットで読んでいた。
(2021年に書籍がでている)
今日は、日経のSNS取材班のこちらを読んでいた。
「プーチンは侵略者」 ロシアから反戦ツイート 弾圧下の投稿者11人の覚悟: 日本経済新聞
今日はこれから夜シフト。
明日は朝シフト。そのあとは山を吸いに行ってこようと思っています。
5月6日(金)には、展示室showroomで「律」(予定)。
同じ雑司が谷内なのですけれど、違う場所に施術を持って行ってみると、また刺激の質も変わる、ということで、ポツポツと途切れながらも、2018年から続いています。
手技市と違って、施術は十音ソロなんですけれど、場の力もあってソロの気がしないふしぎなイベントです。
tonenoteトオンノオト
3月19日(土)
二胡はビブラートの事始め。弦楽器のビブラートの練習法は、声楽にも応用できそうです。歌の時は自分の身体の中のことで、闇雲に練習していたものが、外の楽器を鳴らすとなると「筋トレ」としてよく客観視できる。
ビブラートにもいくつかの種類があると伺う。今日は手指の第1関節の曲げ伸ばしで弦の押さえる位置を変え、音に波が生まれるやり方の最初の一歩。ほとんど半音の動きを繰り返すので、ちょっと気持ちが悪いけれど、「センスのいいビブラート」を手に入れるためにこれからゆっくりゆっくりやる。
中国語は、「听説」(~のことを聞いています)と「問」(~について訊く)の用法。後半は李白の「関山月」の読み。漢詩を通して吟読すると、四声の感覚がつかめる気がする。ある四声の、前と後とのつながりが肝なのだ。四声ってネウマみたいといつも思っているんですが、ネウマだってそれだけ一つ書いてあっても歌えなくて、前後があるから定まってくるものだった。詩を音読するのは言語の音を学ぶのにとてもいい。
先日、上海小籠包の店「孫ちゃん」で1人御粥を啜っていたら、お店の方も中国人だしお客さんにも中国の方が多く、飛び交う中国語のうちの数字と、麺という言葉だけはわかって、なんだか中国に来ているかのような楽しい気分になった。あと、隣のカップルのうち女の子が「対、対対対対…」(ドゥエ、ドゥエドゥエドゥエドゥエ…)そう、そうそうそうそう…という意味なんだけれど、激しく相槌を打っていることが分かったり、カネシロタケシばりに低声の美しい男の子のほうの謝謝の発音にしびれたりと、少しずつ言葉が判っていくって世界がカラフルになります。
語学を一所懸命学ぶ人の話で印象的なのは、
映画『愛を読む人』の中でケイト・ウィンスレットが本を開き、昔、恋人に音読してもらって理解していた意味を辞書代わりに特定の単語にマルをつけながら読み書きを学んでいくところと、
宮本輝さんの小説で、ポーランド人のお父さんが、監獄に入っている時に食品が包まれていた新聞紙に印刷された外国語の文章の意味を看守に訊きながら、通訳として生き残るという話。
言葉は強い。シリア人の難民だった方がドイツでドイツ語をマスターし、看護師の職を得て、ウクライナの人に「語学は頑張れば習得できる」と励ます記事にも感銘を受けている。
2年8か月通勤した早朝のアルバイトを先日退職したのですが、そのうちの2年間ぐらいは、帰り道に必ずラジオ英会話をアーカイブで聞いていた。週3日の勤務になると、5回のうちの3回を聞いて終わってしまうことも多かったけれど、「英語は配置」と繰り返し耳に入れて少し恐れが減ったかもしれない。あとは単語と動詞句を覚えないといけないなと思っているけれど。
2022 啓蟄 菜虫化蝶 春の螺旋
reflexologytone.hatenablog.com
そうか、あのころから2年たったのか、と思った。
今日は頭が痛いですが、毎年この時期のこの感じなのだから落ち込むことはない。そして、過去の自分の言葉を読むことで、常に今の自分の気が楽になることも知っています。わたしは未来の自分に対し、養生としてオチのない文章を書くのかもしれません。
自意識過剰なので、書くと大概直後は恥ずかしくなり、いっそのこと写真だけにしようよと思ったりもする。そういうスタイルの友人たちも、雄弁です。
しかし、私の場合は言葉を組み合わせて投稿しておかないと、養生にはならないのでした。機械に修正してもらった整った写真たちは、未来のわたしにとって刺激の質量に乏しいのでしょう。
乏しいにしても、ウィルスとの付き合いにおいて、何が変わったってこのベランダが変わったことを写真で知る。
2年前はアボガドしかいなかったみたいですねー。
今の様子はインスタグラムによく上げています。ホームページのトップから見ていただけます。
それまではひっそりと入りこんでくる春が愛しかった3月は、
東日本大震災のあと、
ウィルスとの付き合いと、戦争によって、なぜか大きな変化を強いられることが繰り返され、そういう季節として身体が覚えこむようになりました。
毎年、災害時のごとく、身体の奥がひんやりと緊張し、人間に対するまなざしの眉間にしわがより、自分が冴えたような気がしたりして一抹の高揚感も覚える。
そしてそうやって自分を分解して、これが続くと5月病だよなと解った気になっていることを嫌悪したりします。
ぐるぐると螺旋がつきあがっていくとき、必要なのは剪定する集中力と、そもそも変なところに巻き付かない的確な根っこの角度。土用でその角度は定めたはずだから、心配せず突き上げろと放つ自信。わたしは五行使いの施術家なので(整体師と施術家どちらがしっくりくるか使ってみています)問題は五行を差し込み切り口をみます。
満月が近いのですが、真上に月があがるような角度でびっくりしました。
これは今のベランダ。