間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

tonenoteトオンノオト 不問

「前回の『エンドルフィン』で味をしめましたね?」

と和葉さんがにーっと笑ったので、

全くだ、グレイに持ちこたえるんじゃなかったっけわたし、

とちょっと情けなく思い、もごもごとしてしまう。

そもそも幼児みたいに何?なんで?と何もかもが気になってしかたがなくなっていた。

幼児よりも言葉に囚われているので、始末はむつかしい。

 

reflexologytone.hatenablog.com

 

 

そもそもこのコロナ期の3年間に解剖学にこんなにのめりこんだのも、

知りたい、知っていないと安心できなかったからなんでは。

つまり、養老先生の言うようにわける行為が名づける行為だとしたら、

自分に起る全てを名付けないと安心していられなかったのだ。

そして、知らないことがたくさんあることを勉強不足として、

懸命に有効成分について知り、商品について知り、人間について知ろうとし、

まだまだ勉強不足だ、と自分を焦らせていた。

 

問いは難しかった。

知ることはいいことだろうか?

と問われると、

いや、よくないっすね

と答えてしまうし

 

逆に、

知ることは悪いことだろうか?

と問われたら

いや、いいことですよね…

とか答えてしまうだろう、わたし。

 

セッションが終わって、

今なぜか身体に濾し残っているのは

 

問いの方向についてのむにゃむにゃ

 

みたいな感じ。

ラクティショナーからとは限らず、

自分自身が自分に課している問いのことも。

 

究極の持ちこたえるべきグレイは

今のこの感覚、「不問に付す!」なんではないか…

 

問うことにつかれてませんか。みなさんはどうですか。

 

十音の刺激(ローテイティングサム)は

問いとかノックみたいなものだと思っていて、

皮膚の接点に向かう時、全身で時にはアタマで、

「この先どこにつながってる?」と集中して考えていた。

それはそれで、ほぐしになることもあって、

十音の刺激としてアリなのだ。

 

そして、(接続詞だいじ)

 

今回 小笠原和葉さんのところで受けたタッチワークはマ反対で、

セッションの中で浮かんだある思い出したことに対し、

 

すき間ができてそういうのも浮かんできましたけれど、それについて今は考えたり、分析しなくてよいので、

 

と「まさかのスルー」が新鮮だった。忘れてもいいのか…

思えばわたしはこのセッションに、

徹夜で仕上げた分厚い課題を提出しに来た学生みたいになっていたんですけれど、レポートが「おつかれさまでしたー」と労われつつ、あんまり華麗にやわらかく、つぎつぎに不問に付されていくので、

 

セッションが終わって起き上がった時には、

もう自分の探求とかいいや、べんきょうもいいや、ボキャ貧でもいいや、

世界が青いな、

静かだな。

そこに足の骨モデル捻転して行き倒れているな、

今日はベランダのれもん眺めて1日終わりでもゆるす。

 

みたいに、絶望とか落胆とは違う感じで「どうでも」よくなっていて、

なんかヘラヘラと退室し、

気が付いたら計画していた道ではないところを歩いて、

それが前と同じくすごく身体が重たくて歩幅が出ない、

とぼとぼと駅にたどり着くという感じ。

 

老若男女魑魅魍魎相手に固めていた武装

セッション中何度も感じた歯や手指や腓骨筋のジンジン感と一緒に蒸発してしまって、

1日たった今もちょっとロウギアにヘラヘラしている。

 

サバンナでこの状態でいたら、喰われるんだろうか。

それとも、あんまりヘラヘラしているので喰う気が失せるだろうか。

考えてみたら、レジの合間なるべくヘラヘラしていようとしたんだけれど、

その最大級が来た感じ。

幼いころ、高い熱が出た時になぜか笑い続けてしまったことを思い出す。

手にあまり力が入らない。

 

その夜当日はわくわくと住まいや車の資料を買ってきてくれた家人に、読みたくなったら読むわみたいに反応してしまってちょっとがっかりさせ、そんな自分に覇気がない!危機感がない!と叱ろうとする自分に、そーいうとこだぞおまえと自分で突っ込んでいた。

 

自分を安心させるのに、決して問われない ということがわたしには大事な条件かもしれない。

 

もうしばらくヘラヘラしている感じを味わっていようと思います。

あと、問わない刺激ってできる?って自分の手に問うています。


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ベランダのれもん。