間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

2021 立秋 寒蝉鳴

今朝、品出しをしながら同僚の、
「令和になってからロクなことがない」というセリフにちょっと笑ってしまった。
そのあと「そういえばわたしの平成は貧困と疲労であったよ」というフレーズが脳内に自然に出て来て、
それダケではなくハデな熱狂もあったのですが、
確かにグラウンド・バスのようにうねる「お金がない」「疲れた」という苦しみから
逃れられなかった30年ほどをばばばっと思い出して、少しの間苦しかった。

 
わたしは貧困と疲労のセットが怖い。
貧しくても元気だったらいいし、疲れていても衣食住がある程度補償されていたら耐えられるんだけれど。
そして、家を失くした人のドキュメンタリーと香港映画には必ずと言っていいほど出て来る公衆トイレと公園を、
なんだか苦しみの象徴のように思っていて、実は前を通りたくないぐらい怖い。

公園の前では息を止めている。
以前、bigissueに載っていた、
ホームは持たないがモデルでカメラマン、という男性のドキュメンタリー映画
”HOMME LESS”
の始まりは美男子が髪を整えるシーンから始まる。
彼がびしっと決めたスーツで出て来るのはわたしが世界で一番怖いかもしれないセントラルパークの公衆トイレ(だと思う)。
彼は、他人のビルの屋上に「住んでいた」のではなくて、一時ステイしていただけ、とあとの「ほぼ日」のインタビューで言っている。
それが意外に快適だったなんて言っているけれど、スーパーの大きな飲料水ペットボトルに尿を足しながら朝までひっそりと屋上に潜むなんて大変だ。
眠る家があるというのは、排泄する個人的な場所があるっていうこと。
それを失うのは本当に怖い。

 
映画の最後に、彼がカメラを持つ旧知の監督に向かって「君は友達だよこんなによくしてくれて」と泣きだして直後にふんっと泣きやんでみせる。
そのエンディングがショックで、何が恐ろしいかってマーク・レイが、「ホームを持たない人たち」がフンっと嘲笑したのはわたしの傲慢なホームレス観だと思ったのでした。

(注:マーク・レイはホームレスでモデルでカメラマンで役者さんでもあります)

 
そのあとも駅前で父親のような風貌の男性からビッグイシューを買い続けているけれど、正直わたしには重たく複雑で怒りを呼び覚ますし恐ろしい課題です。
なかなか「あしがらさん」も見ることができないと思う。

 

 

今日は月に2回の、二胡と中国語のレッスンでした。

二胡の弓の走るラインは

まるで横隔膜を馬の毛で弾いているよう。

そして、2本の弦とファーストポジションでできるドレミファソラシドレ 

その音階の流れだけで出来上がる音楽はまるでグレゴリオ聖歌のよう。

つまり、「かえるの歌」とか「チューリップ」とかって

すごくグレゴリオ聖歌っぽいのです。

弓の運びがネウマ譜になる…という感じ。

 

組踊のセリフの読み方とグレゴリオ聖歌も似ていた。

フレーズごとに「オチ」があるという感じ。