間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

本末、始末。

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いのちがけで生きているということを、忘れているよね。特に日本人て忘れやすいかも。保険診療でなんとかしてもらえると思っているかも。と、そんな話を昼の食事をしながら話していた。

 

こんなに医療費が補填される国において、わたしたちは補填する側一辺倒。収入の少なさにしてはすごい額の国民健康保険料が山﨑家から出ていきました。ほとんどお世話にならないように日々気を付けているのに。夫の番頭さんにいたっては全くお世話にならない年が何年も続いている、医療のこと。

 

わたしたち民間療法者はもっともっと合法的にその技でもってこの保険料支払いを減らすために貢献できるのではないかと、ずっともやもやとしています。

 

しかし私の場合、使命を果たすために動く手順がピカっと閃かないとまったく動けず、日がな一日、きゅうりの苗をみつめて過ごすことになります。そういうのを「勧照生活」と古代ギリシャ人は呼んで、最も人間的だとしたらしい。そのよさはやってみるとまあ、本当によく解りますが、

 

でも、保険料は出ていくばかりなのでそのお金をいただかないといけません。誰から?もちろんお客様からです。施術をして、いただかなくてはなりません。そのためには、わたしが施術をしていることをお知らせし、集客をしなくてはいけません。
しかしこの6月はどうもスカっと発信ができません。おまけに、もう少しこんな感じが続くのかな、という予感がします。

 

個人セッション室のオーナーが、そこでセッションをしているということをお伝えする術は、SNSの普及で劇的に増えました。その分、オンラインの発信が上手くないことや、自分のことをうまく要約説明できない自己嫌悪が増えました。

 

同じ事象でも、購買欲を「くすぐる」書き方とそそられない書き方があるということが分かります。自己嫌悪に陥るぐらいなら、人の「くすぐられる」文章を思いっきり参考にしたらよい。けれど、わたしはもともと、ミーハーっけがないのです。よほどのことでないかぎりくすぐられない。結果、世間があまり面白くありません。この6月だからだと思います。

 

そして、お誘いするとき、自分の知り合いからあたっていくため、「友だち」が減るような錯覚があります。知り合いのみなさんが気を使い必ず「十音に会いにいくからね」と付け加えて下さるようになる。そんなのいいから、酒瓶持って遊びにきたらいいのに。

だって、お金の話だけで言ったら、なにか別のお金が浮くんなら、セッションというお節介なんか必要ないのです。1000円のワインなら4本、持ってお話しに来てくださるならそれでリフレクソロジーのセッションなんか必要ないではありませんか。
2016年からこのかた人からの「お茶」のお誘いを受けにくくなりました。自営業の時は金なりなのでしょうか。人を誘えなくなり、人からお誘いを受けなくなっていきます。

 

もともとただ向い合うコミュニケーションは得意ではないので、ちょうどよい仲立ちとして手技を身につけたのに、なんだか本末転倒です。これをよいこらしょと本末正しく起こさないといけないのではないか。

 

 

大学生にお話することになって、自分のしてきたことをパワポに刻み込んでみました。驚くのは、やり遂げずに放置しているように見えることの多さです。
その時は必死に考えたり、悩んだりしてもがいている記憶があるのですが、どれもこれも決着がついていない、「始末が悪い」という印象。数年前、「大人には卒業式がないから自分で卒業しないといけない」ということをフェイスブックに書いたのですが。

 

入学も成人も卒業も修了も就職も退職もできていないという印象です!一番長くいたオーケストラでさえ、辞めたあとに「送別会開くから都合のいい日教えて」というメールが来ましたが、これなんだか変だよねえ、と思って送別会いらないですと返してしまったことを悔いています(嘘、悔いてません)。

 

一方で、世の中に始末をつけないといけないという風潮が強すぎるようにも感じます。先日21日が夏至で日食でなんだかすごい日だったはずなのですが、その前日に終わらせて(何を?)21日から始めなくては(何を?)を、わたしは何を意気込んでいたんだろう…

結局「観照」の1日に対して自己嫌悪するような始まりになってしまいました。(笑)

 

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自分にとっては「縁側」のような、ベランダへの掃き出し口に座り、見上げるとこういう風景です。隣のマンションからラジオやテレビの音、子どもの泣き声、周囲から鳥の声なんかが聞こえ、じっとしていると世の中の鼓動を感じ取るようです。いろんなものから見下ろされ、解される感覚があります。テアトロ・アナトミコ(解剖教室)で献体になっている気分。

 

 

冒頭の写真ですが、東京で大学院を修了したあと、沖縄で声楽を学んでいたわたしのメモです。録音して先生から言われた一言一言をノートにつけました。

 

一つのコマで100行ほどもあるこの否定の言葉たちを、わたしの身体はどうやって肯定的に再現しようとしたのでしょ。

 

こんなにできないことばかりでおまけに勇気もセンスもないらしい身体は、
あなたの言うことがわたしは何もわからない!と叫んでいる。ノートをつけながら毎回泣きました。結果、立ち直ることができずに沖縄は去ることになります。

 

この当時はまだまだ、声楽の解剖学は教える人たちに主流ではありませんでした。

 

結局…本当は一番いい先生は自分だったり、「時」だったりします。今のわたしは、このノートをみて自分の当時の身体に何をしてやったらよいかがよく解ります。リフレクソロジー(反射学)は遠隔操作の技だから。

 

開かない心に開けといっても、開かないものです。伸びない腹直筋に伸ばせと言っても無理。骨抜きってやつです。こういう教え方をするなら白骨模型が必要ですよね。

 

その先生のことは、リトマス試験紙のように思いなさい、と他の先生からは言われていたのですけれど。全部真にうけるのが師弟関係だと思い込んでいましたし、無理でした。違う身体であることに加え、言葉は身体から出て、精神をぐさぐさにすることができる。

 

わたしが始末をつけられないことは、多くが見返すのが辛いからなのではないかと思います。

 

でもこの際、一度自分の筆跡をたどってみるのはよいことかもしれません。リフレクソロジストになったわたしがこのグサグサなわたしの身をどう解せるか。
そのうえで、後輩に伝えたいことはなんでしょうか。

 

ほんとは300人分リフレクソロジーできたらそれで一発始末つくんだけれどな。
結局「ほぐしをほぐす」をずっとやってるということですね。
だから今月中はこの調子ですね。