出られないわたしたちと、触れられないセラピストの、ウチの足の物語 4/13
reflexologytone.hatenablog.com
数日前にこんなお願いをして、
昨日、重かった車輪がごろんっと転がりはじめました。
これ、けっこうポテンシャルのある企画だと思うんです。
人を解剖できなかった制限が、想像力や哲学で人を観ることにつながっていきました。
出られない、会えない、触れない制限が、人の違う叡智と治癒力を引き出したり呼び覚ますきっかけになるのではと考えています。
リフレクソロジーの世界をリベラル・アーツにつなげる「ほぐしをほぐす」だと思うんです。
頂いた写真は、セラピューティック・リフレクソロジストにとっての貴重な資料にさせていただきます。
現在、13組の写真をいただいて、先ほどまでにやっと6件の物語を書きました。
即興の100本ノックをしたいのですが。
どしどし、お送りください。
(落ち着いたら送るよーとか家族の送っていいですか?といった「送付予告」もいただいて、とても嬉しいです。)
なぜか私は「数」にこだわります。
それが客観的に信用できる情報だからかもしれません。
平常時の十音は、
セラピューティック・リフレクソロジー90分という同じ楽譜をもって、
異なる人たちや同じ人の異なるタイミングとセッションしていくという
とにかく「触ってなんぼ」のしごとをしています。
しかし、触れない今、わたしは何をできるんでしょうというのが、
4月はじまって以来の課題でした。
セラピューティック・リフレクソロジストとしての技のアップグレードを、
誰かとやりとりしながら、そして何かを創りながらやっていくことはできないかと思いました。
直観をつなげていく、連想というのでしょうか。
それが引き出す解決があるということを知っています。
きっかけは、海堂尊の「チーム・バチスタの栄光」だと思う。小説のほうです。
自分や不調も含めた登場キャラクターで物語をつくることが、
理解につながり、理解したら解放に向かっていると思っています。
今回、ご自身で触っていただいた感触を私の手に転送していただいています。
確実に、何かを遣り取りしたのだと感じる瞬間があります。
さて、先ほど返信した方たちが、もう感想を送ってくださいました。
ふふふ。嬉しいですね。
他人の情報が過多になる時があって、そういう時は言葉を削いでいきます。
でも、会えない今は、交わした言葉の数だけ、こころが強くなれるような気がします。
写真。
土が恋しくて土からできたものを買った。
創った人は、土から作る土に還れないものだと言っていた。