無題。
コレ、ずっと持っていたんです。
行きたいってずっと思っていて、いつもカバンに入れていて、こんなになっちゃった。
と、しわしわになった十音のはがきや、江古田のリラクゼーションのちらしなどを取り出して見せて下さる方がいる。
もちろん、「とうとう来てくださった!」時だ。
自分にも覚えがある。「行きたい」と思っている期間のエネルギー消費って大きい。自分にわくわくもしている。行こうかな、いやそこまで気分が乗っていない、今は機じゃない、お金の優先順位とかいろいろ考えて疲れたり。
残念ながら、その「行こうかやめよか考え中」のうちに、潰れたりするのが個人商店だ。
「行こうと思っていたのに!」は、正直まったく、その商店の存続には使われなかった空しい愛として、消えていく。
そして、また次のくしゃくしゃなちらしがカバンに。
最近、瞬時に行こうと思って予約するもの以外の印刷物は即、古紙袋行きか、またネットならブックマークもしないことにしている。
その時ピンと来ても、行動を起こさなかったことには、すでに自分の中でケチが付いているような気がしています。
ちょっと厳しすぎるかな。。。
話変わって、
水曜日、安田佳生さんのメルマガが届いた。
リフレクソロジーにおいては、私は果敢に種まきをしているつもりでいるけれど、
まだまだ命を使い切るほどに撒き切れていない。
企画において、「そのしごと、他の誰もやっていないか」「そのしごと、必要としている誰かはいるか」「そのしごとに愛はあるか」というのは私の中の最低限満たしたい条件なのですが、
その一番基本のところで何かが揺らいでいる。というか、思考が散らばっていました。
つまりは、種蒔きの前の耕しをすでにさぼっているということですね。
そして、前述の最低条件に加えて、わたしは以前撒いた種の、収穫までの時間の過ごし方を間違っているのだということに気が付く。
例えば十音は値上げを宣言しましたが、それには施術1000人を修行として課している。
将来1000施術を達成した時、「私だけの数」として心強い信頼と宣伝材料になるという確信はあります(その確信が時々自意識としてはしばしに出てしまうのが欠点でもあるのです)が、あと310施術するにあたっての、芽の育て方、時間の過ごし方に何かずれたところがないか。
種蒔きから収穫の間、育ちつつある芽というのは希望だけれど、その時空いているお腹を満たしてくれるわけではない。
学生時代、長野県の川上村に住み込みバイトをしていた私は、
作物というのが時期をずらして種蒔きをし続けないと農家を支えないのを見た。
310施術の育ちを淡々と見守ると同時に、
次の、次の、小さなお商売の種を撒かなくてはいけない。
今まではイベント施術を撒いていた。
雑司ヶ谷に看板を出したくて、月一回のイベントを2種類。「雑司ヶ谷手waza市」と「律」。
人のニーズに応えたいと、江古田でのイベントを週1回。「江古田の杜のすいようびのリラクゼーション」江古田には全身施術のニーズがあったので、それができるスタッフをもう1人増やした。
でも、リフレクソロジー一本を売りモノ(事)にしている十音にとっては、他のスタッフが提供してくださる手技によってもたらされる収入は結局、自身の手技に対する評価ではないという思いが消えない。
もちろん企画に対する評価ではあると思うし、企画力は前職で鍛えてもらったのでイベントを興すことにはあまり抵抗がないのですが。
わたしが本当に収穫したいことは何だろう。
形のないものを売るにあたっては必ずついてくる、耕さなくてはならない土地がひろがっています。