解りたい?
私たち「セラピスト」は、
見えない体内のわけのわからないコリに、
治療という決定打を出さずに、向き合い、もちこたえている。
解らないこと、というグレーをそのまま、そこにあるな、と気づいていて、
自分が差し込む刺激によっておこるクライアントのトーンの変化を追う。
わけのわからない不調の違和感に身体がきしむ音。
わけのわからないことを、そのままホールドするのは胆力のいることだ。
人間はわかりたい生き物らしい。
養老猛さんは、
解剖というのは、解りたい人間たちが、それぞれの臓器を分けて、名づけることだったと書いていた。
名づけられることによって、
その臓器は西洋医学的には、
「胃」らしく、「肝臓」らしく、「腎臓」らしく…働くことを求められる。
世界による、いわば<職業の解剖>によって
わたしも、「フリーのセラピスト」に分類されるとき、
「セラピストらしく」働くということを要求され、
その「らしく」という型によってどこかをこわばらせ、凝っていないだろうか。
そもそも、
解りやすいということはそんなに大事だろうか。
解りにくく、解(と)きにくく、解(ほぐ)しにくいものつまり、
「コリ」は複雑で奥が深く、そこにいたる物語がある。
痛みもある。
わたしたちは身体的なコリに触れながら、身体が語る解りにくい物語を聴いている。
見聞録の語り手としての、小松さんの言葉は、
聴く人それぞれのコリに、
それぞれの振動のしかたで響くのだろうと思う。
その「それぞれ」をちょっとシェアしてみたい。
ほぐしがたいコリを、
そのままに語ってみるということが案外ほぐしにつながるのではないかしらん。