間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

型と型のあいまにふと。

そういえばゴールデンウィークの始め、梅若能楽学院会館での、仕舞や舞囃子、素謡の発表会へ伺ったのでした。
 

しぐさの一つ一つが、

型として美しく伝えられていて、

「なければならない、しかしそれ以上はいらない」

という絶妙なぎりぎりラインに目もこころも釘付けでした。

 

能は究極の癒しだったと、聞きましたが、

あの世とこの世の境目でうつらうつらとしている間に、

細胞に刺激が入って新陳代謝するということなんでしょう。

 

能舞台の上のみが隙なく張りつめている、

気配りで満ちているものを、

こちらが完全にリラックスして

守られた空間で見ているというギャップが、

そういう究極の癒しをもたらすのかなと感じました。

 

それ、リフレクソロジーのセッションでも一緒。

 

いつのまにか序破を過ぎて急になっていることとか、

袴の脇あきのところに手を入れとくとか(シスターみたい)

方向転換は内回りであること(すごく内反足になります。腎経…)

地をドンっと打ったあと、ふっと上るつまさき、

地謡のみなさんの、扇子を持ったときに先っちょが少しだけ地に着いているのは、

アース線みたいだな、とか。

足の運びがなんと地に執着のある世界だろうとか。

 

詳しくないので、

一つ一つの理由を知りたいと思うと同時に、

自分で読み取ろうとしてみる。

 

相手の心づくしを、

説明されずに読み取ろうとする、という想像力の使いあいが、

生きるということを豊かにするなと思います。

 

そして、型を、

覚えなくてはいけないこととしてではなく、

必然のこととして流れの中でとれるという身体の興味深さと、

 

無駄がなくて、とてもトレーニングされていて、

どこまでも自分を消すけれども、

どうしようもなく出ているその人の性質に興味がわく。

 

舞っているひとはもちろんなのですが、

例えば型から外れざるを得ない後見の、

すそを整える指先に出る、個性とか、気性のようなもの。

 

ふとしたところでにじみ出るものだから、

普段から自分を整えないといけないんだということも知る。

 

何百年続く研ぎ澄まされたパフォーマンス=セラピーから教わることは多い。

 

ayakoxyamazaki.wixsite.com