間と食卓と調子~リフレクソロジー雑司が谷十音

日々のあいま、リフレクソロジーで聴く、心とからだの調子。リフレクソロジスト山﨑絢子のブログ。

五行の音を聴くような。

先週末は毎夜出かけていました。
2つのコンサートと、1つレクチャーコンサートへ。

 

f:id:ReflexologyTone:20190429160831j:plain

 

3つの客席に座っていて、自分の「聴き方」が昨年までとはまったく違ってきていることに気が付きました。

 

好きなメロディ、フレーズを追う(もしくは、好きなメロディがないと飽きる)というのではなくて、確実に、音色の組み合わせを、夕焼けや雲の形が刻々と変化するのを認識するように、味わうようになっている。

 

例えばクライアントにご縁をいただいて伺った東京佼成ウィンドオーケストラ

 

ウィンドオーケストラはほとんど初体験で、弦楽器も入ったオーケストラに較べると「風度」が高いのかしらなんてつぶやいたら、「ともかく一度聴いてください!」ってお誘いいただきました。

 

前職は、弦楽四重奏木管五重奏、金管五重奏が学校やその他地域へ出かける、「出張音楽会」のアテンドをすることが多かった私は、ウィンド・オーケストラは金管合奏の響きに近いものだと思い込んでいたのですが、むしろ「木管五重奏」のほうに近い。

 

1曲目のミヨーの音楽から、木管五重奏の光景がばーっとよみがえってきました。
どちらかというと、華やかでポピュラーな曲を取り上げる金管の組と違い、木管五重奏は、洗練された響きのラテンヨーロッパや中欧の音楽を教えてくれました。特にフランスものの雅な響きに感動したのをよく覚えています。

 

弦楽器と管楽器の組み合わせのように、判りやすく発音体が違うことを味わうのと圧倒的に受け取り方が違って面白かったことは、「楽器の材質」が風合いとなって出ていること。
管楽器(と、少しの弦楽器、打楽器)のみで構成されたウィンド・オーケストラでは、「みな吹いている」からこそ、繰り出される音の風合いの違いが何から来ているのか気になってしまったということです。

 

例えば、
真鍮だな、とか、黒檀なんだな、とか。シングルリードなんだな、ダブルリードだな、水辺の葦なのよね、とか。リードを通さない、唇だけを音源に使う管楽器と、息を吹き口で分ける管楽器と。

 

オーケストラが鉱物と植物でできている森を吹き抜ける風みたいに聴こえてくるわけです。

 

粛々と揺さぶりをかける手技療法をやっていて、
一押しの質と、指の離れる瞬間の質を上げるというマニアックなところ(それも足の皮膚との接点だけ)にいってしまった自分は、とうとうこんなところまで、材質の組み合わせ(テクスチュア)で聴くようになったのかと、妙に納得してしまいました。

 

そういえば…管楽器の人たちに「残心」の所作がほとんどないことに、改めて衝撃を受けました。それまで、フルオーケストラを見ていて、スターの管楽器の方たちが自分の担当するフレーズを吹き終えるとすごい脱力する(姿勢が一気にくしゃっと崩れる方もいる)のが、「ああやって前のフレーズのことをすぐに忘れないと、次のソロなんて吹けないんだろうな」とは思っていたのですが。

 

そこに所作と残心という単語が浮かぶというのがまた…(笑)

 

残心て、私は高校生のときに知った言葉なのですが、例えば時代劇の剣道で、相手を斬ったあとの静止と振り返りの時間のことを想像してもらえばよいのではと思います。専門的に言えばもっともっと難しいと思いますけれど…!

 

文字通り、そこにこころを残して、きちんと収める所作ですね。

 

「パート」をきっちりこなしながら音楽を構築していくオーケストラにおいては、
残心よりも次、ということなのか。
誰かにフレーズを渡す、とか、「オレ、ここ吹いたぞ」とマーキングするような欲はわかないものなのか、興味あり。訊いてみたい…


最後に、わたしがコントラバス奏者から音楽の楽しみ方を知るのは、
コントラバス奏者って一番低音とか、弦をはじくとか、まさに底の力持ち役で奏でる音は地味でありながら、その1音にかける所作と残心が一番派手だからではないかと気が付いた。

 

セラピューティック・リフレクソロジストっぽいのだ。笑

 

そして、2夜めは「風ぐるま」その東京佼成ウィンドにもいらっしゃったバリトンサックスの栃尾克樹さん、わたしの声の師匠の波多野睦美さん(まさしくこの夜のパートは「声」)、そして高橋悠治さんのピアノ。

hatanomutsumi.com

 

数えない間の芸術。

 

と感じたが(高橋さんが休符を数えるようには見えがたい…)実際には、全部の「間」が違うからこそ、セッションするときには「数える」と波多野先生。深い。

 

モノオペラとか「反オペラ」とか、面白い。ピアノは漫画によく入っている「ぴきっ」とか「ザァーーー」とか、あの文字と同じような情報をわたしにくれる。バリトンサックスは、もうちょっと声寄りの情報を。

 

3夜めは、もっと「朗読」でした。それも聖書の「雅歌」の朗読。
第1部と第2部で、読み手と合いの手の奏者を違えた、雅歌のおなじ部分を聴く。

 

第1部では声優・俳優・歌手の池澤春菜さんが読んだものを、第2部で小説家の池澤夏樹さんが読む。訳し方が違うということよりも、色をつけない訥々とした男性の声と、色彩豊かな澄んだ女性の声で読まれるのとで、語りかけてくることの違いがはっきりして興味深かった。

 

わざとそういう組み合わせにしたのか、どうなのか存じ上げないのですが、第1部のタイトルは「教会で読まれるために訳された『雅歌』」、第2部は「純粋な恋愛の詩として味わう『雅歌』」。朗読者×奏者の組み合わせが反対だったらどんな風に感じたかなと思う。そして、つのだたかしさんの奏でるリュートの音が、古代イスラエルのつづれ織りを解くように、語り手の魂を引き寄せるようだった。

 

息から糸(それも材質は動物の腸だ)の震えまで。音を振動の材質から聴くような。

 

今夜はまた、ひとの振動を聴くセッションに戻っています。