手酌日記(Faebookのノートからうつし)
問題解決のための道具なのに、道具を評価するために問題をわざわざつくっているような、
だから道具としての質問する力が身に付いていない。
もともと客観視が苦手な(客観視などしないほうが生きやすい)職業についているひとを、うながし役に仕立て上げるということ自体、、、その人の勉強のためのワークショップの参加者にしてみればめいわくな話かもしれません。その人に何が足りなかったのか、という容赦ない「つっこみ」が必要だし。
でもわたしは音楽家が楽器を手に果敢にファシリテーションに挑戦するのをホシヒュウマのお姉さんのように応援している。そもそもファシリテーターは応援されることが必要なんだろうか?応援自体が彼らの歩みを遅くしているのではなかろうか?甘くはなかろうか?などと思いつつ。
ファシリテーターを「養成」することってできるのでしょうか。
自分のあり方がしなやかに定まっていて、
問いのヴァリエーションがやまほど蓄えられており、
他人に関わるということに尽きない愛情を持っている
そういふひとにワタシはなりたいから、ファシリテーションを学ぶのか?
いや、そういうひとだからファシリテーターとして世間からもとめられるんではなかろうか?村の長老みたいなもので。
以上、西村佳哲さんの「かかわり方のまなび方」——ワークショップとファシリテーションの現場から を読んでいて感じたこと。
ちくま文庫大好きです。
斎藤孝さんの「質問力」もよい問いかけになると思いました。
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今まで限られた機会しか会えないけれど大好きな歌い手さんと、今日仕事を離れて話をできた。
オーケストラの音楽家はこわいことがある。心ないことを発言する人もいる。音楽家だからこその心の闇、あれはなんなんでしょう。
きっと、その方の音楽の先生が、良くなかったんだと思うわ。とずばりと言い切った。
だって、私の先生は、社会での音楽家のあり方をわたしにきびしく叩き込んだもの。と。
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これは実は職業に関わらず言えることではありますが、継ぐということが重視される職業の一例として音楽家をあげれば、
1人の音楽家には何人かの師匠の音楽家としてのあり方が結晶していて、その師匠たちにはまた何人かの音楽家のあり方が結晶していて、
だから1人の音楽家が音楽をできなくなるということは、
その智の結晶が一つなくなること。
そして、オーケストラが一つなくなるということは、その結晶の集まりである鍾乳洞が一つ崩れ落ちるようなものだ。
だから、文化的支援というのは個人単位も団体単位も意味あることですし、芸術を仕事にする人は自分に結晶されたものを磨いて恥じない表現、アウトプットをしてほしい。
「あなたの師匠の顔が見たいですね」とひそかに思われているようでは、だめじゃろ〜。
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あと、集団で働くなら世代感は大事だ。特に年長者には必要だ。集団で元気でいるためにも。
世代感を失ったところから崩れる鍾乳洞がある気がしてとても気になっている。
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本日の手酌。
ディルとしょうがのパエリア、塩檸檬とヨーグルトで和えたじゃがいも、ソーセージとエリンギを焼いたの。
大好きなリフレクソロジーのお店へ行き、デトックス中なので、焼酎のお湯多めであたたかです。