呼称の功罪。
内臓の名前を定めたところから、内臓の病気が始まったように思う。
病院に、病人と認定してもらいに行く人もいるかもしれません。
保険のきく薬は症状名がないと出してもらえない。
だから病気の名前も考え出しました。
同じような感じで、
カテゴライズすることでそのカテゴリーっぽいふるまいを求められたり、
そのカテゴリーの性質だと思い込んだりすることがあるように思うということを、
昨年の「ほぐしをほぐす」の前段で書いた。
セラピストという職業名をつけられたことで、
セラピストらしく健全な言葉を紡がなければ失格なのではないかとか、
人に術を施す側だと思い込み苦しくなったりするということ。
あと最近、自分が「就職氷河期世代」とか「非正規雇用」とか「有期雇用」というカテゴリー名を聞くと過剰反応するということが分かりました。
何も強いられていないのに、なんだか「救済されなかった」みたいな卑屈な思いがわいてくるのはなぜなのでしょう。
たまたま時代がそのような傾向だっただけで、雇用は雇用で正も非正もなく、2種類の雇い方と働き方があっただけ。
こんなことで怒りがぶり返したりするのは本当に時間の無駄ですし、
まんまと選挙の作戦に煽られている感じで愚かだと思うので、
そろそろスカっと、自分の怒りにカタをつけないといけないと思っています。
今日、クライアントさんと話していて気が付いたのですが、
わたしには単語に刺激され踊らされる弱さがあると思うので、
カテゴライズや単語の向こうにある本質のところだけを感じるようにしたい。
わたしは自由な働き方を許されていたし、それを押さえつけていたのは自分自身。
でもそれに気が付いたのはラッキーで、方向転換することができると思います。
新聞ではわたしの年代がとても元気なく、引きこもり、就業支援が必要だと書いてあるようですが、そうなのかなあ。
自分の生を精いっぱい生きている人が多いように思います。
「正規」が幸せだというのは、方針をつくるひとたちの固定概念じゃないかしら。